出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

倉本長治と田中治男『踏んでもけっても』

 本ブログ「キディランドと橋立孝一郎」に記しておいたように、橋立が書店の流通革命に目覚めたのは、商業界のゼミに参加したことがきっかけだった。商業界ゼミの主宰者は倉本長治であり、倉本は橋立と異なり、『出版人物事典』(出版ニュース社)に立項されているので、それを引いておく。
出版人物事典―明治-平成物故出版人

 【倉本長治 くらもと・ちょうじ】一八九九〜一九八二(明治三二〜昭和五七)商業界社長。東京生れ。仙台二中卒。東京商工会議所などを経て雑誌『商店界』の編集に参加、一九二五年(大正一四)編集長。戦後五〇年(昭和二五)『商業界』主幹、のち商業界社長となる。戦前から広告・宣伝のコンサルタントとして知られ、戦後は“真商道”を説いて商人に強い影響を与えた。『機会を生かせ』『これからの経営』『商店読本』など多数の著書がある。

 この記述には戦前の『商店界』をめぐって、補足すべきことが多い。『商店界』は清水正巳主幹の雑誌で、大正九年に白羊社から創刊されたが、白羊社の破綻に伴い、小川菊松の誠文堂に引き取られた。そして大正十三年に倉本が入社し、清水に代わって編集に当たるようになり、小川の経営才覚と倉本の企画宣伝力によって、儲かる雑誌に成長したとされる。それゆえに倉本の出発点は誠文堂の『商店界』にあったと言っていい。

 以前に誠文堂の円本企画『大日本百科全集』に言及した際に、全四十二巻に及ぶすべての著者は判明していないが、誠文堂の内外を問わない執筆者人脈が動員されたようだと述べておいた。実際に倉本もその著者の一人で、『生活安定法』を書いている。この本の内容はいかにして金を儲けるか、及び小資本による商店開業案内に重点がおかれ、タイトルとは少しばかり乖離している。実用的な『大日本百科全集』の一冊であることから、このような題名になったのであろう。これには「書籍雑誌店」の案内も収録されているので、このような機会を得たこともあり、それを紹介し、昭和初期の開店事情だけでも見てみよう。

 東京で書籍雑誌店を開くためには、まず東京の雑誌販売業組合と書籍商組合に加入しなければならない。加入しないと取次が書籍雑誌を供給できないからだ。だが加入金が必要で、前社が二百円、後者が三百円であり、返還は不可となっている。さらに大取次に対して、五、六百円の保証金を用意しなければならず、また同業者の近くには開業できない出店規制もある。したがって、権利を買ったりする手段はあるにしても、書籍雑誌店は小資本では成立せず、新規開業も難しいとわかる。昭和十一年に河村清一の『千二百円で出来る書籍雑誌店開業案内』が「商店界主幹倉本長治推奨」として、誠光堂から刊行されているが、倉本のコンセプトの延長線上にある一冊だ。

 このような開業条件と規制は一九七〇年代までは保たれていたのだが、八〇年代における郊外店の出店ラッシュによって有名無実化され、そのことが引き金となって、現在に至る出版業界の危機が胚胎し始めたのである。

 倉本による書籍雑誌店の開業案内を紹介したのは、彼が戦後の書店業界に対して、強い影響力を及ぼした人物であるからだ。橋立は商業界ゼミを挙げているが、倉本についてはふれていない。だが商業界ゼミ=倉本だと熱烈に述べている一冊があり、それがやはりポプラ社の田中治男の『踏んでもけっても』(昭和四十九年、書店経営研究会)である。

 これは「書店の道を求めて」と付されているように、明屋書店の安藤明の伝記とみなせよう。かつて梶井純の『戦後の貸本文化』(東考社)を読んでいた時、この本が引用され、明屋書店が貸本屋から始まっているという事実を教えられた。それからしばらくして、『踏んでもけっても』を入手し、この本が他に例を見ない、生々しい戦後書店史であると同様に、商店街史の一面を備えていることに気づかされた。

 安藤明は昭和十四年に松山で貸本屋の明文堂書店を開業し、成功を収めるが、二十年の空襲によって、店も本も焼失してしまう。だが戦後を迎え、商店街に土地を買い、明屋書店として再出発し、貸本屋から始めて、新刊の雑誌や書籍も扱う書店へと脱皮していく。しかし地元の書店組合に入っていない明屋書店は日配と取引できず、貸本屋や新興書店の取次である浅草橋の宏文堂を仕入れ窓口とし、昭和二十三年頃には一ヵ月に百万円を宏文堂に入金していたという。この宏文堂は『全国出版物卸商業協同組合三十年の歩み』にも出ている。

 つまり明屋書店は特価本業界の取次から始まり、次の神田の専門取次の神田図書に口座を設け、日配とも取引するようになり、それが新取次の日販へと引き継がれていった。このように明屋書店は特価本業界に依存する貸本屋から大書店へと成長したことになる。その意味において、橋立とキディランドのみならず、安藤明と明屋書店の戦後の軌跡は特筆すべきではないだろうか。そして昭和二十六年に「心の師」倉本長治に出会うのである。『踏んでもけっても』の一節を引く。

 倉本長治といえば全国の小売商人、数万人に信者を持つ商店経営の指導者である。
かつて誠文堂新光社の小川菊松の下で商店界の編集を指揮し、独立して『商業界』を興した。
倉本は商業界の社主であるばかりでなく、旺盛な執筆活動により、著書も数多く書いた。また実践家として国内、国外を旅行し、商店経営者の指導を熱心に展開していた。

 常に小規模商店の友をもって任じる倉本の商業界ゼミナールが始まったのも同年で、それに続いて商業界主催の西日本商業研究視察団を募った。安藤がそれに参加すると、六十名ほどの会員の中には千葉の多田屋の能勢、富山の瀬川書店の瀬川の名前もあり、一緒に岡山の細謹舎書店や高松の宮脇書店を見学した。そして倉本から商店街の流動、今後の商店街のあるべき姿、アーケード商店街の出現などの話を聞いた。まさに倉本は戦後の小規模商店と商店街におけるイデオローグだったのだ。橋立も記していたが、商業界ゼミには熱気がこもっていたという。それを田中は次のように描写している。

洋品店主、電気器具商、食料品販売店の息子、履物店経営者――およそ学ぶイメージから遠い商人の群が、真摯な眼を光らせ、講師の説く商人道に耳を傾ける。会場の雰囲気からして熱気をはらんでいる。

 このようなバックボーンと様々なプロセスを経て、戦後の商店街の繁栄が到来したのであろう。商業界ゼミのかたわらで始まろうとしていた高度成長期とは、商店街の隆盛の時代でもあったからだ。

 『踏んでもけっても』には安藤の姿も見える、昭和三十八年の新風会の集合写真が収録されているが、残念なことに橋立の顔は見当らない。全国各地の有力書店の団体である新風会も、倉本の影響を受けて成立したのではないだろうか。また同書に「序文」を寄せているのは倉本であり、田中と倉本も親しい関係にあったように思われる。とすれば、安藤は「あとがきに」あたる末尾の一文のところで、「日本書店大学、日本書店学校を今日あらしめたのも著者田中治男氏です」と述べているが、これは田中と安藤による商業界ゼミの書店版再現の試みとも考えられる。

 最近になって、古本屋で商業界刊行の『倉本長治著作選集』全十二巻を見つけたので、買ってしまった。ベンヤミンも『パサージュ論』(岩波書店)を書くための資料として、パリの国立図書館でパサージュのイデオローグたちの著書の多くを読んでいる。せめて資料集めだけでも、ベンヤミンの精神を見習いたいと思ったからだ。だがその古書価はわずか二千円で、小規模商店と商店街の時代が終わってしまったことを象徴しているかのようだった。

パサージュ論 (岩波現代文庫)