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古本夜話25 井東憲と『変態作家史』

前回 江戸川乱歩とその文学世界のSM小説的な「秘めたる資質」について、少しばかりふれたが、それに加えて乱歩は岩田準一を同行衆として、男色と少年愛の研究の道に深く入りこんだ文学者であり、そこにこそ乱歩の幅広い世代にわたる、衰えない人気の源泉があるのではないだろうか。そして明智小五郎と小林少年の関係は乱歩と岩田準一のメタファーのようにも思われる。

しかしこのことを探索していく前に、もう一度昭和艶本時代に戻り、そこから始めていきたいと思う。男色文学史の道筋をたどるための絶好の資料がそこにあるからだ。これまで伊藤竹酔、村山知義、坂本篤、佐藤紅霞、佐々木孝丸など、梅原北明の出版人脈に言及してきたが、ここでは井東憲を登場させてみる。井東は『文芸市場』の編集にかかわり、小説などを寄稿しているが、坂本篤の言によれば、梅原のパートナーだったようだ。梅原の出版人脈の系譜はこれらの人々の他に酒井潔や中野正人もいて、そのパートナーがめまぐるしく変わっていった軌跡を示している。だから井東も梅原の初期の出版人脈の一人だったと考えられる。

これはすでに[古本夜話]で既述しておいたが、梅原は『文芸市場』を主宰する一方で、牛込区赤城元町に文芸資料研究会を設立し、大正十五年から昭和二年にかけて、「変態十二史」シリーズ十二巻と付録三巻を刊行している。そのうちの第四巻『変態人情史』と付録第二巻の『変態作家史』の二冊を井東憲が書いていて、この企画との深い関係をうかがわせている。さらに付け加えれば、『変態作家史』の発行兼印刷人は上森健一郎である。

さてこの井東であるが、『日本近代文学大事典』講談社) の記述によると、明治二十八年東京牛込生まれ、数多くの職業を転々とし、正則英語学校を経て明治大学を卒業後、『種蒔く人』『新興文学』『文芸戦線』にプロレタリア小説を発表し、上海の革命をテーマにした小説、中国の書物の翻訳や中国についての啓蒙的解説書を刊行したが、昭和二十年に死去とされている。これを『井東憲―人と作品』(井東憲研究会)によって補足すると、出版物の大半が東京で発行されたが、生活のほとんどを静岡の下町で送り、昭和二十年六月の静岡大空襲で大火傷を負い、八月に亡くなったと明かされている。この本でも井東と梅原の関係は記されていない。だが「変態十二史」シリーズの二冊を担当していることからわかるように、詳らかでないにしても、梅原と親密な関係にあったにちがいない。

この両書を読み、とりわけ『変態作家史』の中に気になる部分があったので、それを取り上げてみる。『変態作家史』は井東自ら言うように、「古今東西の変態作家」に関する「風変わりな特殊研究」、もしくは「いわば趣味的な本」であるのだが、「対象の変態心理小説とその作家」のところで、谷崎潤一郎こそが特異な変質的小説家であり、「刺青」や「富美子の足」などを大正の「変態心理小説の白眉」として挙げ、次のように続けている。

 この外、大正の変態心理小説には、鈴木善太郎の「暗示」井東憲の「餓鬼の足跡」中村古峡の狂人小説「殻」、舟木重信「楽園の外」、村山槐多の「槐多の歌へる」山崎俊夫の短編集、佐治祐吉の短編集、菊池寛の「順番」吉田金重の「狂人の夢」、葛西善蔵の「不能者」と飲酒小説、藤井真澄の「モヒ中毒患者」(この作家には変態心理的作品頗る多し)その他がある。

ところが菊池や葛西や村山はともかく、他の作家たちは文学全集などにもほとんど収録されておらず、読んでいるのは山崎俊夫の短編と中村古峡の『殻』だけなのである。前者は一九八六年に生田耕作が編んだ山崎俊夫作品集『美童』(奢灞都館)によって、後者は『編年体 大正文学全集』 ゆまに書房)に収録されてからで、これらのプライベート出版、および大正を対象とした文学全集がなければ、いずれも読まずにいたと思われる。

編年体 大正文学全集第七巻 編年体 大正文学全集第十二巻

井東も「大正の変態心理小説とその作家」と小見出しをつけていることもあり、鈴木善太郎、井東憲、舟木重信、佐治祐吉、吉田金重、藤井真澄たちの作品を求めて、『殻』も収録されている『編年体 大正文学全集』 を繰ってみた。すると井東が挙げている作品は舟木の「楽園の外」(第七巻所収)があるだけで、井東のものは異なる「地獄の叛逆者」(第十二巻所収)が収録され、他の四人の短編は残念なことに見当たらなかった。やはり編年体ということで、その年の主要な作品が選ばれ、しかも小説のみならず、評論や詩歌まで含まれていることもあって、彼らのようなマイナーな作家は省かれてしまったと考えられる。そのような想像をめぐらせていると、「大正異端文学選書」といった企画が浮かび上がってくるのだが、実現は難しいだろう。それでも井東の列挙に引きずられ、それらの作家たちと作品のラインナップを作成したい誘惑に駆られてしまう。それほどまでに舟木の「楽園の外」も井東の「地獄の叛逆者」も興味深い。

しかしもはや二作を論じる紙幅もないので、井東の作品についてだけふれる。「地獄の叛逆者」は遊女として三年間働いてきた浪路を中心とする遊郭の悲惨な生活を描いている。工場の多いその市はストライキの中にあって、資本家も労働者も殺気立っていた。その構図は遊郭の中に持ちこまれる。社会主義者を恋人とする浪路、工場の息子の客としての関係がそれで、浪路は自分を商品のように扱う息子から見受け金を預かるが、ストライキ資金を必要とする恋人に渡してしまう。金がなくなったことを知った息子は浪路を殴打し、彼女は気を失い、真暗な穽の中で憎悪の叫びを発し続けている。明らかにプロレタリア小説で、こじつければ、SM小説の気配もあるが、変態心理小説とはいえないし、遊女とストライキをめぐる生々しい交感を浮かび上がらせている。そして井東が挙げた作家たちも含めて、大正時代を描いた、またその時代にしか書かれなかった、まだ多くの未読の小説あることを実感させてくれる。

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