出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

6 ドライサー『シスター・キャリー』とノリス『オクトパス』

ハメットとピンカートン探偵社の関係、それがもたらした彼のハードボイルドの世界への影響について既述してきた。しかしピンカートン探偵社の影響はハメットだけにとどまるものではなく、他のアメリカ文学にも表出し、近代アメリカ史が「私警察」としてのピンカートン探偵社のような存在とともに営まれてきたことを如実に示している。

しかもそれはゾラの影響を受けたアメリカ自然主義作家たちの作品にも顕著なのであり、ゾラ、アメリカ自然主義、ハードボイルドという連鎖を想起させるファクターとなっている。リチャード・レイマン Shadow man : The Life of Dashiell Hammett において、ハードボイルドの揺籃の地であったパルプマガジン『ブラック・マスク』に集ったハメットを始めとする作家たちが、スティーヴン・クレイン、フランク・ノリス、シオドア・ドライサーの自然主義的小説の影響下に出発し、所謂ハードボイルド小説に至ったと指摘している。
Shadow man : The Life of Dashiell Hammet

先に彼らの作品とゾラとの関連を見てみよう。クレインの南北戦争を扱った『赤い武功章』 (西田実訳、岩波文庫)は冒頭の描写からして、普仏戦争をテーマとするゾラの『壊滅』 の始まりを思い浮かべてしまう。この作品は一八九五年に戦争体験をまったく有していない二十四歳のクレインによって書かれ、新しい戦争小説の先駆と評価された。詳細な文献調査とフィールドワーク、元兵士たちからの聞き書きに基づく作品だとしても、『壊滅』 の読書体験を抜きにしては成立しなかったように思える。処女作『街の女マギー』 にも言及したいが、ここではドライサーとノリスを主とするので、省かざるをえない。
壊滅

ドライサーの『シスター・キャリー』 (村山淳彦訳、岩波文庫)はアメリカ中西部の村から姉夫婦をたよって、あこがれの都会シカゴにやってきたキャリーをめぐる物語である。彼女は都会の華やかな物質文明と消費生活に魅せられ、酒場の支配人ハーストウッドと親しくなり、ニューヨークへと駆け落ちする。そして大都会のニューヨークで、ハーストウッドは酒場の共同経営に失敗し、次の職も見つからずに窮乏に陥り、キャリーとの生活も破綻へと向かう。その一方で、キャリーは女優として認められ、大成功を収めるが、ハーストウッドはようやく得た職場での労働争議に巻きこまれ、自殺へと追いやられていく。

シスター・キャリー上 シスター・キャリー下

ちょうど一九〇〇年に出版された『シスター・キャリー』 は十九世紀のピューリタニズムに抗う物語として出現した。都市、物質文明、消費生活に憧れるキャリーを、世間の掟や道徳の対極に位置する「夢見る人」として描き、彼女の欲望が果てしもないものではあるにしても、人気女優へと至るサクセスストーリーに仕上げられていたからだ。

この連載で、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」が近代という新しい時代を迎え、これまでになかった社会インフラの出現によって、新しい欲望に目覚めていく物語ではないかと記しておいたが、『シスター・キャリー』 もまたそのような作品に位置づけられるだろう。それはこの作品が「叢書」の影響下にあることを示し、多くの類似が見出される。シカゴでキャリーが体験するデパートとの出会いなどは、『ボヌール・デ・ダム百貨店』 、アパート生活は、『ごった煮』 、キャリーの女優生活やハーストウッドの没落は、『ナナ』 のいくつもの場面がすぐに思い出される。

ボヌール・デ・ダム百貨店 ごった煮 ナナ

それにハメットと関連するピンカートン探偵社も登場するのである。この探偵社の発祥がシカゴだったことを想起されたい。ハーストウッドはシカゴの酒場の売上金を横領し、キャリーとまずはカナダに逃れた。しかしホテルにも追跡の手は伸びていた。「ハーストウッドは遠くから見つめられているのを直感し、この男に気づいた。こいつは私立探偵だ―見張られているんだ、と本能的に感じとった」。この男がピンカートン探偵社の回し者だと付け加えるまでもないだろう。そしてハーストウッドは横領した金を返却するしかなく、これが後のニューヨークでの没落と窮乏へとつながっていく伏線となる。

さて次に『シスター・キャリー』 に続いて、一九〇一年に刊行されたノリスの『オクトパス』 (八尋昇訳、彩流社)に移る。これは十九世紀末のカリフォルニアを舞台とする作品で、そこでの横暴をきわめる鉄道会社と農民たちの熾烈な闘争を、機械と自然の原始的な力の戦いのように描いている。これもテーマからしてただちにゾラの『獣人』 『大地』 『ジェルミナール』 が連想され、登場人物たちやいくつもの場面が「ルーゴン=マッカール叢書」の中にあってもふさわしいように見えてくる。例えば、次のような『オクトパス』 の風景は、ゾラの『大地』の中のボース平野ではないかと錯覚してしまうほどだ。

オクトパス 獣人 大地 ジェルミナール

 そこにはすぐ目の前に、小麦が地平線から地平線まで、幾マイルとなく大地を覆って、どこまでも広がっていた。すでにかなりの日を経て、草丈はもう地面から高く伸びている。その小麦が広漠とした静かな海となって広がり、月の下に、星の下に、うす緑に輝いている。強大な力、国ぐにの力、世界の命が夜のなかに、空のドームの下に、やすむことなく伸びているのだった。

この『オクトパス』 アメリカ文学者の井上謙治は解説「フランク・ノリス―人と作品」を寄せ、「ノリスはゾラの自然主義をアメリカ西部の風土に適応させることによって、きわめてアメリカ的な楽天主義的自然小説を生み出した」と述べている。

実は『オクトパス』 にもピンカートン探偵社が出てくる。『シスター・キャリー』 のように探偵は実際に姿を見せていないが、農民側に立つ酒場の主人が語る「妻がストライキのデモの最中に、ピンカートン探偵社の一味に事故で殺された恐ろしい話」に言及している。

つまりこれまで見てきたように、ドライサーの『シスター・キャリー』 やノリスの『オクトパス』 に象徴されるアメリカ自然主義小説がゾラの影響下に構築され、そこに点景であるにしても、ピンカートン探偵社の存在が書きこまれていることは、自然主義、もしくはプロレタリア文学からハードボイルドへの移行を示唆しているのではないだろうか。なお日本における『大地』と『オクトパス』の最初の翻訳者は農民文学者の犬田卯だった。

またノリスとドライサーの関係について記しておけば、ノリスはダブルディ・ページ社の出版顧問として、『シスター・キャリー』 の出版に力を尽くしている。その出版契約後に不道徳ゆえに破棄されそうになり、五百部も売れなかったにしても。

そしてドライサーの一九二五年の『アメリカの悲劇』 (大久保康雄訳、新潮文庫)にも言及しておけば、この作品のラストに当たる殺人を犯した青年の裁判を経て、牢獄で死刑を待つシーンは、この連載でふれることになるフォークナーの『サンクチュアリ』 、ジェームズ・ケインの『郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす』 カミュ『異邦人』 へと継承されていったように思われ、様々な波紋の広がりを示しているのではないだろうか。

サンクチュアリ 郵便配達はいつも二度ベルを鳴らす 異邦人
◆過去の「ゾラからハードボイルドへ」の記事
ゾラからハードボイルドへ5 IWW について
ゾラからハードボイルドへ4 ダシール・ハメット『赤い収穫』
ゾラからハードボイルドへ3 『ジェルミナール』をめぐって
ゾラからハードボイルドへ2 『ナナ』とパサージュ
ゾラからハードボイルドへ1 「ルーゴン=マッカール叢書」