出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話38 岩田準一と田中直樹

『南方熊楠男色談義』 (八坂書房)の岩田準一の書簡を読んでいて、教えられるのは男色の文献に関してばかりでなく、彼の東京生活が四、五年であったにもかかわらず、いくつかの出版シーンに立ち合い、その後も出版社の内実に絶えずアンテナを張っていたという事実である。それは江戸川乱歩との交流に加え、竹久夢二から与謝野鉄幹との出会いにまで及び、図らずも知らずにいた出版社のことを開示している。彼の書簡と巻末の「略年譜」を照合しながら、その出版との関係を追ってみる。

岩田は中学校時代に乱歩と出会い、夢二に私淑し、夢二風の多くの絵を描き、それらは『竹久夢二 その弟子』 (桜楓社)という彼の画文集にまとめられている。夢二にそれこそ夢中になり、岩田は神宮皇學館を中退し、東京の文化学院美術科に入学するほどで、夢二の代作も担い、昭和三年に宝文館から刊行された『夢二抒情画選集』の編集も受け持った。さらに彼の夢二コレクションは膨大なものだったが、死後に日本常民文化研究所に寄贈され、それから出版社の龍星閣にわたり、夢二の復刻本の原本になったという。また皇學館時代には与謝野夫婦が監修した『日本古典全集』(其刊行会)の編集も手伝っていたから、実質的な編集長だった正宗敦夫とも交流があったかもしれない。そして平凡社の『江戸川乱歩集』(『現代大衆文学全集』第三巻)の挿絵も描いている。これらの岩田の出版体験記は乱歩たちとの関係もさることながら、東京生活を昭和初期円本時代の中で過ごしたことにも起因している。

その後鳥羽に帰り、男色文献の研究に入り、昭和五年から乱歩の斡旋で、『犯罪科学』に「本朝男色考」を連載し、南方との書簡往来が始まるのである。書簡のきっかけになった『犯罪科学』の「本朝男色考」のページには南方の書きこみがあり、それが『南方熊楠男色談義』 の口絵写真として収録されている。『犯罪科学』の版元はやはり円本の『近代犯罪科学全集』の武俠社である。岩田の書簡によれば、乱歩を通じて『犯罪科学』の編集長の田中が、「本朝男色考」の連載を即断し、優遇してくれたが、六年になって「熱血な人」田中が退社したので、『犯罪科学』との関係がこじれてしまったようだ。そのためだと思うが、岩田の「略年譜」を見ると、七年から掲載誌が『犯罪科学』から『犯罪公論』へ移っている。

『犯罪科学』も『犯罪公論』も所持しておらず、語る立場にないのだが、『犯罪公論』については気になる記述が記憶に残っている。それは高見順『昭和文学盛衰史』 (文春文庫)の一節で、昭和八年の小林秀雄たちの第一次『文学界』創刊号の「編集後記」を引用し、そこには「経営者田中直樹氏の献身的な努力も約束された」とあった。そして高見は続けていた。

 文中の経営者田中直樹というのが、『犯罪公論』をやっていたひとである。『犯罪公論』というようなエロ・グロ雑誌の発行者に、どうして『文学界』のような純文学雑誌の発行をゆだねたのだろうか。今日から見ると、奇怪な感じである。

だが当時としては「やや意外という感じ」であっただけだと高見は述べ、続けて『犯罪公論』の目次を紹介し、この時代特有の社会的反逆精神を秘めた「『犯罪公論』は単なる猟奇雑誌なのではなく、田中直樹は単なる猟奇雑誌の発行者なのではなかった」と書いている。文学史から見れば、何のつながりもないが、出版史をたどれば、『文学界』の小林秀雄たちと、梅原北明の出版人脈は交差していたことになる。

この田中直樹岩田準一の担当編集者であり、「今では心易くなってしまっている田中氏」ではないだろうか。高見は田中が『文化公論』という雑誌も発行していたと記しているし、昭和九年に岩田も『文化公論』に「稚児伝説」を発表していることから、ほぼ同一人物と断言していいだろう。この「稚児伝説」をめぐって、八年の暮れに岩田はもう一度田中のことを南方に報告している。それは田中が秦豊吉丸木砂土)と一緒に鳥羽を訪れ、岩田の兄が朝日新聞社の鳥羽通信員だったので、案内役を任せたところ、秦は兄とハリウッドの俳優である上山草人の関係を探り出し、それを雑誌に書いてしまった。そのことで兄は迷惑し、上山との長年の交誼を失い、岩田自身も田中を憎むようになったが、「彼もその後経営困難の悲境に陥ったので、昔の情誼を重んじ、タダで拙稿を与えた」と書き、執筆者たちも「左傾しそうな連中ばかり」だと南方にも用心を促している。

調べてみると、田中は武俠社を退社し、昭和六年九月に『犯罪公論』を創刊し、四六書院から発行している。どのような関係なのかわからないが、四六書院は『古本通』などを始めとする「通叢書」の版元で、三省堂の子会社である。そして『文化公論』を刊行するに及んで、四六書院から独立して文化公論社を立ち上げ、昭和八年十月にはこれらの二誌に加え、『文学界』を発行するに至る。しかし『文学界』は九年二月の五冊で休刊になってしまい、その後を野々宮慶一の文圃堂が引き受けるのだが、同様の運命をたどり、十一年からは文芸春秋社が発行所となり、現在まで続くことになる。

おそらく岩田が「彼も経営困難の悲境」と言っているのは『文学界』休刊前後をさしているのだろう。だが田中がいなかったならば、岩田と南方の往復書簡も成立しなかったかもしれないし、『文学界』も創刊されたかどうかわからない。その意味で、田中についての詳細は明らかでないにしても、出版史において果たした役割は大きいと思われる。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら