さらに仮説を続けてみよう。アメリカプロレタリア文学やハードボイルドだけでなく、私はゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」とフォークナーの「ヨクナパトファ・サーガ」にも多くの共通性を感じてしまうのだ。
しかしウィリアム・フォークナーの場合、従来の研究ではフランス象徴主義の影響は語られているにしても、ゾラとの関連はこれまで論じられてこなかったと思われる。もちろん私が目を通しているのはわずかな日本の研究と翻訳文献でしかないし、フォークナー研究は世界的に一大産業といわれるほどの汗牛充棟の状態にあるようなので、すでに出現しているのかもしれないが。
それに私はフォークナーの研究者ではなく、二十代後半になってフォークナーに耽溺していたこと、それに加えて、ゾラの十作の翻訳に取り組んだことがあるだけで、そのような比較文学の大きなテーマに関して、言及するに足る資格を充分に備えているわけでもない。しかしこれらの体験を通じて、ゾラとフォークナーの相関関係に気づいたこともあり、そのことを書いてみたいと思う。
まず「ルーゴン=マッカール叢書」だが、既述したように、南仏の架空の町プラッサンから始まる物語群で、異父同母のルーゴン=マッカール一族を主人公とする連作である。その二十作のうち、『ルーゴン家の誕生』『プラッサンの征服』『ムーレ神父のあやまち』『パスカル博士』の四作はプラッサンを舞台としている。他の作品はパリの他に地方の農村、漁村、炭鉱、戦場などが物語の背景となっている。だがその起源は常にプラッサンにすえられ、ゾラは自ら描いたプラッサンの地図を第一巻の『ルーゴン家の誕生』の冒頭に掲載している。
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またこの「叢書」はそれぞれ独立した長編を形成しているが、人物再現法を採用し、主たる登場人物たちは主役を演じるだけでなく、脇役や背後に控える一族の人々として、「叢書」の中に何度も顔を見せている。これはバルザックが「人間喜劇」に用いた手法で、ゾラがそれを継承したことになる。
次にこれも簡単な説明しかできないけれど、フォークナーの「ヨクナパトファ・サーガ」を見てみよう。フォークナーは一九二九年の第三作目の長編『サートリス』から、自分の生まれた土地、「私自身の小さな郵便切手のような故郷」であるミシシッピー州ラファイエット郡オックスフォードが、一生かかっても書き尽くすことのできないトポスだと気づき、自己の才能を極限まで活用し、そこで起きた現実を小説とすべきだと考えるに至り、この土地を自らのミクロコスモスと定めた。
そしてそのミクロコスモスをヨクナパトファ郡ジェファーソンと名づけ、地図まで作成し、「面積:2400平方マイル―人口:白人6298:黒人9313 ウィリアム・フォークナー、ただひとりこれを所有す」と記した。この地図は『アブサロム、アブサロム!』に収録され、各種の翻訳にもかならず掲載されているはずだ。フォークナーは三十年間にわたって、この「ヨクナパトファ・サーガ」を書き続け、十二の長編、五十七の短編に及び、彼の全作品の半分を占め、代表作を形成している。それらの主な長編は『アブサロム、アブサロム!』の他に『響きと怒り』『サンクチュアリ』『八月の光』である。またこの「サーガ」も人物再現法をとり、登場人物たちはそれぞれの作品に繰り返し出現することになる。
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この「ルーゴン=マッカール叢書」と「ヨクナパトファ・サーガ」の共通点を挙げてみる。
1 モデルはあるけれども、架空のトポスを物語群の故郷とすること。
2 その南仏とアメリカ南部における「南」の同一。
3 一族の物語であること
4 人物再現法を採用していること。
5 普仏戦争と南北戦争の敗北を背景とする戦後文学であること。
このように両者の共通性がたちどころに指摘できるし、同じ構成とファクターを共有しているといっても過言ではない。これまでそのことが指摘されてこなかったのは「ルーゴン=マッカール叢書」が十九世紀フランスの近代小説、「ヨクナパトファ・サーガ」が二十世紀アメリカのモダニズム小説という、国と世紀と手法が異なる物語世界だと見なされてきたからではないだろうか。
しかもこれらの共通性だけでなく、あの突然変異的にして画期的なフォークナーの『響きと怒り』も、これまではその内的独白、意識の流れ、現在と過去の交錯といった構成に対して、エリオットの『荒地』やジョイスの『ユリシーズ』の手法を導入したと説明されてきた。そしてこの解釈が『響きと怒り』という難解この上ないテキストにつきまとっていた。この小説は四部からなり、旧南部全体を象徴するコンプソン家の内的崩壊が、三人の兄弟の独白によって語られている。第一部が三男ベンジー、第二部が長男クエンティン、第三部が次男ジェイソンによるもので、第四部に至って、彼らを育てた黒人女中ディルジーの語りとなり、コンプソン家の悲喜劇が三人称の文体でようやく明晰に俯瞰されるのである。
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さてここで問題にしたいのは第一部の三男のベンジーで、彼は白痴として設定され、読者は何も知らされずにいきなり白痴の意識の世界に入りこむことになり、『響きと怒り』固有の難解さの中に引きずりこまれてしまう。この白痴のベンジーは誰からイメージされ、どこから召喚されたのだろうか。
この疑問は三十年前に私の脳裏に浮かんだものであったが、ゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」を訳している過程で、ひょっとすると『プラッサンの征服』『ムーレ神父のあやまち』のデジレ、『ごった煮』のサチュルナンからヒントを得たのではないかという思いに捉われたのである。ここでは『ボヌール・デ・ダム百貨店』との関連もあり、後者だけにふれる。
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『ごった煮』は「叢書」の第十巻で、『ボヌール・デ・ダム百貨店』の前編にあたり、同じようにオクターヴ・ムーレを主人公としている。付け加えれば、前出のデジレの兄である。彼はプラッサンから上京して、ブルジョワたちが住むアパルトマンに居を定め、パサージュの商店に勤めて雌伏の時を過ごし、様々な女性たちとの熾烈なイメージ戦争とでもいうべき物語を繰り拡げていく。その中の一人にベルトという商店主の若い妻がいて、オクターヴと関係するようになるのだが、彼女は次女で二人の兄と姉がいる。そして次兄のサチュルナンが白痴という設定なのだ。
この小説は男たちの女性嫌悪、女たちの男への軽蔑、近代産業社会を迎えての男女のイメージのすれちがい、性を介在とする男女間の幻想の交錯といった色彩に覆われているのだが、白痴のサチュルナンが出現すると、そのジェンダー闘争のような世界は異化され、親和的な世界をもたらすのである。そしてオクターヴとサチュルナンとベルトの関係は次のように描かれる。拙訳で示す。
しかし最も親しい友人はサチュルナンだった。サチュルナンの無言の愛情と忠実な犬のような献身は、オクターヴが若い妻に対してさらに激しく欲望を覚えるにつれて、次第に高まっていくようだった。(中略)オクターヴが妹の方に身をかがめて、幸福な恋人のような甘くやさしい言葉で笑わせると、サチュルナンも顔にほのかな官能的悦びを浮かべて、彼自身もうれしがって笑うのだった。この哀れな存在は本能の命ずるままに自分のものだと感じている妹の肉体の中に愛を味わっているようだった。そして自分の選んだ男が妹に幸福を与えていることにとても感謝しているようにも見えた。
オクターヴとベルトがかもし出すあからさまな男女の世界の駆け引きの世界も、白痴のサチュルナンにとっては「ほのかな官能的悦び」に他ならず、二人を原初の男女の世界へと連れ戻そうとしているかのようだ。それゆえにサチュルナンの眼差しから、この『ごった煮』の物語を再構成すれば、まったく異なる世界が表出することになろう。
もしフォークナーが『ごった煮』を読んでいたならば、そのように考えなかったであろうか。そして白痴の視点で物語を紡ぎ出すことを思いついたとしたら、『響きと怒り』までの距離はそれほど遠くなかったのではないだろうか。
これらが『響きと怒り』に絡んで、『ごった煮』の翻訳中に思いだされた事柄であった。はたして単なる妄想と仮説にすぎないであろうか。
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