『ハヤカワミステリマガジン』一月号の「ハメット復活」特集で、小鷹信光と対談している諏訪部浩一は、〇八年に『ウィリアム・フォークナーの詩学1930−1936』(松柏社)という著作を上梓し、フォークナーにおける新世代の研究者として出現した。
この諏訪部の一冊は、一九七七年から八二年にかけて刊行された大橋健三郎の『フォークナー研究』(南雲堂)の全三巻以後の特筆すべき日本人によるフォークナー論と思われる。アメリカ本国の最新の研究動向も幅広く視野に収め、精緻にしてスピーディな文体で、フォークナーの世界を走り抜けていく、これまでにない研究の地平を開示する印象があった。
同書の中での一九三〇年代に刊行されたフォークナーの五作の長編をめぐる叙述は、これからふれようとする『サンクチュアリ』に限っても、諏訪部も参考文献に挙げている大橋の前述の著作での言及よりもはるかに深化し、フォークナー研究の目ざましい進展を伝えている。とりわけ諏訪部はジェンダー研究の成果を積極的に取りこむことによって、フォークナーの小説の奥行の深さを新たに立体的に浮かびあがらせている。『サンクチュアリ』のオリジナル版と改稿版の綿密な比較研究を通じて、その過程にフォークナーの小説家としての急速な成長と社会的関心の深化を読みとり、物語のコアが「母」から「父」へと転位したことを指摘し、『サンクチュアリ』の改稿版の新たな位相を提出している。ただ諏訪部の『サンクチュアリ』分析は専門的研究に属し、精緻にして強度な緊張を孕んで進められているので、これ以上読者につきあわせることはできない。だからそのスリリングな筆致を味わうためには同書を読んでもらうしかないと思われる。
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この連載の目的はゾラからハードボイルドへという仮説を探っていくものなので、そのことだけにしぼって書き進めてみる。諏訪部もまたフォークナー読解に関して、ハードボイルドの視点を導入し、『アブサロム、アブサロム!』を論じた章で、主人公の一人であるクエンティンにふれ、次のように書いている。
批評家たちはしばしば『アブサロム』の探偵小説的特徴を指摘してきた。だが、『アブサロム』を『響きと怒り』のモダニスト的達成を乗り越えるものとして読もうとするに際して主張したのは、この作品がクエンティンを中心的探偵とする一種の探偵小説であるとするならば、それは十九世紀中葉に誕生した「モダン」な伝統的探偵小説ではなく、むしろそのジャンルへの批判として三〇年代に―フォークナーの社会的関心が拡大進化したのとまさしく同時期に―興隆したハードボイルド小説として読むべきだということである。
そして諏訪部は『アブサロム、アブサロム!』のハードボイルド小説としての読解を進めていくのだが、私はこれを、『サンクチュアリ』に適用したいと思う。なぜならば、『サンクチュアリ』のオリジナル版は三〇年代ではなく、二九年の一月から五月にかけて書かれていて、それはハメットの『赤い収穫』や『デイン家の呪い』の出版とほぼ同時期にあたる。とすれば、フォークナーの「社会的関心」もまたハメットと共通していたと考えられるだろう。
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ただフォークナーがハメットと知り合い、意気投合したのは三一年で、フォークナーがパルプ・マガジン『ブラック・マスク』やハメットのこの二冊を読んだかどうかはわからない。さらに付け加えておけば、すでに論じたチャンドラーの『大いなる眠り』 の映画台本『三つ数えろ』をフォークナーが書いたのは四三年になってからである。
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フォークナーが見ていた一九二〇年代のアメリカはF・L・アレンの『オンリー・イエスタディ』(ちくま文庫)に描かれているように、第一次大戦後から二九年の大恐慌までの特異な時代で、禁酒法下におけるギャングの暴力と支配が蔓延し、タブロイド新聞にはギャングたちの殺し合いの物語が躍っていた。そのような社会を背景にして、ハードボイルド小説は誕生してきたのである。
しかしそのハードボイルド小説の物語設定として、ハメットとフォークナーの何よりの差異は、前者がコンチネンタル・オプなどの私立探偵をそれでもヒーローとして造型したことに比べ、後者はポパイというアンチ・ヒーローもしくはダーティ・ヒーローを物語の中核にすえたことだろう。ポパイは『サンクチュアリ』の冒頭から姿を現わし、真の主人公のベンボーを見つめている。フォークナーのハードボイルドの位相を鮮烈に告げているかのようだ。
灌木の茂みの中にある泉、まだらに輝いている日の光、鳥たちの鳴き声、そこでポパイとベンボーは出会う。二人はそれぞれのポケットに入っているものを問う。ポパイはピストル、ベンボーは本だった。ポパイは密造酒を造る森の中の隠れ家にたむろする暗黒街の住人であり、ベンボーは町の弁護士だった。「ピストル」に象徴されるポパイが導火線となって、ヒロインを犯して娼家へと連れこみ、仲間たちを殺し、それらの事件を「本」を表象するベンボーが追いかけることで、表面的にストーリーは展開していく。
シンプルに解釈してしまえば、ポパイは一九二〇年代のアメリカの悪を象徴するアンチ・ヒーロー、もしくはダーティ・ヒーローということになる。ところがフォークナー特有のねじれが集約され、ポパイは性的不能で、しかも無実の罪で絞首刑にされてしまうのだ。そして同じく性的不能と考えていいベンボーも含めて、特異な二〇年代における「父の不在」を問うているようにも読める。「ピストル」によっても、「本」によっても解決されることのない社会とジェンダーの深い亀裂を紛れもなく露出させてしまい、それがハメットのハードボイルドとは一線を画する物語になってしまうのだ。
したがって『サンクチュアリ』は、ハードボイルドに共通する禁酒法下のギャングや世紀末的宿命の女たちを登場させ、事件も同様であるように映るが、それは物語の表層でしかなく、決して読者にカタルシスを与えない、これまたアンチ・ハードボイルド小説の様相を呈していることになる。また逆にいえば、フォークナーの文学世界の深淵においては、ポパイのようなハードボイルド的キャラクター自身も身の置き所が定まらず、永遠にさまよい続けるといったイメージがつきまとい、そのただならぬ深淵におののきすらも覚えてしまうのである。だからこそ『アブサロム、アブサロム!』に至っては、フォークナーのハードボイルドを極限化させる試みだったようにも思えてくる。
ただそれにしても思い浮かべてしまうのは、この『サンクチュアリ』と「ルーゴン=マッカール叢書」の関連である。最初に出てくる森の中の隠れ家は「老フランス人屋敷」で、最後の場面はパリのリュクサンブール公園で終わっているし、ポパイを始めとする登場人物たちも「叢書」に出自があるようにも見分けられる。一例を挙げれば、ポパイの父親はスト破りを職業とする人物として設定され、これも『ジェルミナール』を想起させるのである。
また先にポパイとベンボーが泉で出会う場面を紹介しておいたが、実はベンボーがポパイを見出すのは泉の水鏡の中においてなのだ。そして泉を隔てて、まったく対照的な背の高いやせた男と「毒々しい、底知れぬ感じ」の男は出会ったばかりなのに、二時間も向かい合い、話しこむことによって、物語が始まっていく。
この『サンクチュアリ』の冒頭の場面は、「ルーゴン=マッカール叢書」の第一巻『ルーゴン家の誕生』における主人公の少年シルヴェールと少女ミエットの出会いを彷彿させる。二人は壁によって分断されている井戸の、それぞれの半月形の水鏡の中にお互いを見つけ、壁を隔てた井戸の水鏡を通じて逢引きを重ねるのだ。これは『伊勢物語』の筒井筒のエピソードも思い浮かべてしまう。そしてこの水鏡での出会いが不幸なクロージングへと進んでいくことも知らないで。『サンクチュアリ』におけるポパイとベンボーもその二人と同様の道を歩んでいくことになる。
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なお『サンクチュアリ』の邦訳は加島祥造訳の新潮文庫版、大橋健三郎訳の冨山房版『フォークナー全集』7を参照した。
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