ロス・マクドナルドの影響は日本だけでなく、同時代のスウェーデンにも伝播し、それはマイ・シューヴァル/ペール・ヴァールーの「マルティン・ベックシリーズ」として出現している。シューヴァルとヴァールーは夫婦で、いずれも新聞、雑誌社に勤めた後、結婚し、二人で警視庁殺人課主任警視マルティン・ベックを主人公とする警察小説の合作を始め、一九六〇年代半ばから それは『ロゼアンナ』 を第一作とし、七五年の『テロリスト』 までの十作に及んでいる。それらと刊行年を示す。
1 | 『ロゼアンナ』 | (1965) |
2 | 『蒸発した男』 | (1966) |
3 | 『バルコニーの男』 | (1967) |
4 | 『笑う警官』 | (1968) |
5 | 『消えた消防車』 | (1969) |
6 | 『サボイ・ホテルの殺人』 | (1970) |
7 | 『唾棄すべき男』 | (1971) |
8 | 『密室』 | (1972) |
9 | 『警官殺し』 | (1974) |
10 | 『テロリスト』 | (1975) |
これらはスウェーデンの警察小説であるのだが、ほぼリアルタイムでイギリスのゴランツ書店やアメリカのパンセオンブックスから英訳が出版され、4の『笑う警官』 が七一年にアメリカ探偵作家クラブ最優秀長編賞を受賞している。これは七三年に舞台をストックホルムからサンフランシスコへと移し、アメリカで映画化されたことも相俟って、ベストセラーとなっている。なお日本では全作が高見浩によって英訳から重訳され、角川書店から刊行された。また映画『笑う警官』は『マシンガン・パニック』 として公開されている。
シューヴァル/ヴァールーは『パブリシャーズ・ウイークリー』(71年9月6日号)のインタビューで、犯罪小説という形式を選択した動機について、次のように答えている。これらの訳文は『笑う警官』 (角川文庫)所収の高見浩「あとがき」からの引用であることを明記しておく。
わたしたちが住んでいる社会を分析するには、犯罪小説ほど格好な形式はないとおもうからです。その点で私たちの推理小説観は、わたしたちの大いに尊敬しているロス・マクドナルドのそれと一脈相通じるものがあるといっていいのではないでしょうか。
その具体的結実が「マルティン・ベックシリーズ」であり、それについても述べている。
ご存じのように、このシリーズは各巻とも三十章から成っています。わたしたちは最初から一年一作のペースで書き継いでゆき、全部で十作をもってこのシリーズを完結させる構想でスタートしました。言いかえれば、わたしたちは全部で三百章から成る、一つの大河小説を完成させるつもりで各巻を書いているわけです。その三百章を通して、前後十年間にわたるスウェーデン社会の変遷を、マルティン・ベックの生活や、彼が追う事件によって描き上げてみたいというのが、実はわたしたちの念願なのです。
前者の言に付け加えて、二人はハメットやチャンドラーの影響も語っているので、「マルティン・ベックシリーズ」は基本的に「ハメット・チャンドラー・マクドナルドスクール」を継承して始まったことと考えていいだろう。
ヴァールーは第十作『テロリスト』 完成直後に四十八歳で亡くなり、七六年に高見浩がスウェーデンにシューヴァル夫人を訪ね、「マイ・シューヴァル夫人会見記」(『密室』 角川文庫所収)において、『パブリシャーズ・ウイークリー』とは異なる証言も記している。それによれば、これまで「マルティン・ベックシリーズ」は二人がエド・マクベインの「八七分署シリーズ」のスウェーデン語訳者だったことから、同じく警察小説でもあり、それも意識したとされていたが、マクベインを読んだのも翻訳したのも『バルコニーの男』 を書き上げた後だったという。ちなみに彼女はチャンドラーを最も好み、マクドナルドはそれほど買っていない。だから前出の『パブリシャーズ・ウイークリー』の言は、ヴァールーの発言だと見なすべきだろう。
私はこの連載で、マクドナルドがリュウ・アーチャーを主人公として、新たに出現しつつあったアメリカの戦後社会を描くことを目的としていたと書いたが、『ロゼアンナ』 が発表される六五年以前に、マクドナルドは『さむけ』 までの「アーチャーシリーズ」十一作を発表している。シューヴァル/ヴァールーが十作で「スウェーデン社会の変遷」を描くことを構想したのは、マクドナルドを範としたと考えていい。しかしアメリカ特有の私立探偵はスウェーデンのような国では成立しないために、警察小説という形式が採用されたのではないだろうか。
ただそれにつけても、後半の発言はゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」を想起させずにはおかない。シューヴァル夫人は当然のことながら、自国のストリンドベルィも読んでいると語っているが、ストリンドベルィはパリでゾラと知り合い、ゾラが出版社などへの紹介の労をとっている。スウェーデンにおいて、「ルーゴン=マッカール叢書」は翻訳されているのだろうか。「ルーゴン=マッカール叢書」も「近代」という新しい時代を背景にしていたのだ。
それならば、「マルティン・ベックシリーズ」の前提となる「スウェーデン社会の変遷」とは何なのか。百瀬宏の『北欧現代史』 (山川出版社)などを参照すると、次のような状況をさしているように思われる。スウェーデンは第二次世界大戦を通じて中立の地位を保ったゆえに、戦火をまぬがれただけでなく、戦後のGDPは二〇%増大し、政権を握った社会民主党は社会改革にとりかかり、累進課税や資本への課税によって財政確保をはかり、老人年金の引き上げ、児童手当の導入、総合性をめざす教育制度の改革などを推進した。その一方で国有企業、公有企業、私的企業が並列して存在し、社会主義と資本主義がミックスした「混合経済」とよばれる経済構造が形成された。しかしそれらは官僚たちによって推進され、福祉にしても制度や設備が整えられても、人間らしい生活ができるような社会には至っていなかった。かくしてスウェーデンの五〇年代から六〇年代は高度成長期であり、ヨーロッパ諸国をしのぐ生活水準にまで上昇した。だが経済的変化とパラレルに社会構成も変わり始め、農業や漁業の就業人口は十三・八%に低下し、代わりにサービス業や事務労働従事者の比率が高まり、所謂新中間層の人々が著しく増大していった。
これらの六五年から七五年にかけてのさらなる「スウェーデン社会の変遷」が「マルティン・ベックシリーズ」ではそれぞれの警察官の生活や家庭、舞台となる社会や経済、起きる犯罪や殺人を通じて、具体的に言及されていくことになる。
前置きが長くなってしまったが、「マルティン・ベックシリーズ」にとりかからなければならない。ただ全作にふれることはできないので、ここでは第一作|『ロゼアンナ』 だけに限る。ミステリとしても警察小説としても、この作品より優れているものが何編もある。だがこの『ロゼアンナ』 こそは「マルティン・ベックシリーズ」の幕開けにふさわしい作品で、それを象徴するかのように、以後の作品の中でも繰り返し回想され、言及されているのだ。
『ロゼアンナ』 は遊覧船が行きかう夏の運河において、若い女性の全裸死体が浮かび上がった場面から始まっている。死因は絞殺で、性的暴行の跡が認められた。被害者の身元も不明であり、犯行状況もどこだかわからなかった。その死体描写は半ページにわたって行なわれ、「その日、さんさんと輝く太陽の下で見た死体のありさまを、彼らは生涯忘れることはあるまい」と記されている。医師の所見には「性的暴行に関連して絞殺死に至らしめられたもの」で、「犯人は残虐にして、倒錯的な性向の主と想像される徴候あり」とも書かれていた。
マルティン・ベックは写真に映っていた「はかなげな全裸の姿態」を思い浮かべ、「彼女はいったい何者だろう? 何を考え、どのように生きていたのだろう? その果てにどんな人物とめぐり合ったのか?」と自問する。
彼は同僚の刑事に形式的な報告書、死体の復元図ではなく、「血の通った人間像」「生きた人間の復元図」としての被害者像を書いてくれるように依頼する。それゆえに彼女は二ページにわたって、新たで詳細な肉体描写を加えられ、表象されることになる。
これに続く三ヵ月に及ぶ捜査にもかかわらず、彼女の身元も犯人の手がかりもつかめなかった。だがベックは思う。「おれは頑固で、論理的で、沈着な男だ。どんな局面に立ち会おうとも、けっして投げ出さずにプロらしくふるまわねば。“残忍な”といった言葉は新聞に任せておけばいい。殺人犯も人の子なのだ。並みの人間よりわずかに神経が異常な、哀れな人間であるにすぎない」と。このようなベックのトーンこそはリュウ・アーチャーを継承したものだと断言していいだろう。
捜査が行き詰まる中にあって、アメリカの警察から電報が届く。それはアメリカ大使館を通じて失踪人捜査の協力を依頼した、ネブラスカ州リンカーン署殺人課のカフカという警部補からのもで、その電報によれば、死体はアメリカ人女性のロゼアンナで、二十七歳の図書館司書だった。彼女は五月の初めに一人でヨーロッパ旅行に出かけ、その二ヵ月の間にスウェーデンにも一週間滞在し、遊覧船で周遊する計画であった。それから考えると、ロゼアンナは遊覧船で殺され、運河へ投げこまれたことになる。
遊覧船の乗客リストには、六十八人の中に混じってロゼアンナの名前が見出された。アメリカから送られてきた調書によって、彼女はニンフォマニアで、セックス殺人の可能性があるとわかる。ベックの捜査から、ロゼアンナと女の肉体に魅せられながらも、女性を嫌悪する男が船上で出会ったことが判明する。ニンフォマニアとミソジニーの出会いが殺人へと結びついたのだ。男は語る。
「あいつは命を亡くして当然だったんだ。このおれまで穢らわしい人間にしようとしたんだから。あいつは淫蕩な光を体じゅうから発散していた。(中略)おれはあいつを殺さなければならなかった。あいつの穢らわしい体を殺さなければならなかったんだ」
このような告白を聞くと、私はやはりゾラの『獣人』 (藤原書店)のジャック・ランチエが示す、女性に対する殺人衝動を思い出す。それは女たちが男に対して犯した罪、洞穴の奥で最初に裏切られて以来の積り積った男の恨みではないかとされ、ゾラは「血と神経に衝き動かされて、強者になる喜びを求めるときに、はじめて人殺しをするようだ」と書きつけている。
「マルティン・ベックシリーズ」の第一作の『ロゼアンナ』 において、スウェーデンの社会、警察機構、家庭などはまだ立体的になっておらず、後の作品ほど顕著に描かれていない。だからこそ、ニンフォマニアとミソジニーの出会いによる殺人が新たなテーマとして浮かび上がり、サイコサスペンスの先駆けであったような印象を受ける。そしてそれは高度な生活水準と社会福祉体制を達成したスウェーデンのような国においても、新たに表出し始めていた問題であることを告げているのだろう。
しかしそれにしても、ロゼアンナの死体に関する執拗な描写は何を意味しているのだろうか。しかも先述したように、ロゼアンナの事件とイメージは、その後の作品の半数以上で繰り返しフラッシュパックされ、イメージが反芻され、「マルティン・ベックシリーズ」の「原風景」、もしくは原点としての犯罪を形成している。
そしてロゼアンナがアメリカ人女性であるとの設定を考えていくと、シューヴァル/ヴァールーが、ロゼアンナをアメリカのサイコサスペンス的な宿命の女ブラック・ダリアに見立て、ロゼアンナをスウェーデン的ブラック・ダリアと見なし、それに象徴される病んだスウェーデン社会を描くために、「マルティン・ベックシリーズ」をスタートさせたのではないかという仮説が浮かんでくる。
それならば、ブラック・ダリア事件とは何か。それが語られなければならない。
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