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古本夜話54 西谷操と秋朱之介の『書物游記』

梅原北明の出版人脈の中にあって、その文章がまとめられ、出版や翻訳や装丁に携わった「書物一覧」も編まれている人物が一人だけいる。それは西谷操で、秋朱之介『書物游記』として、書肆ひやね から昭和六十三年に刊行された。そこには荻生孝による「秋朱之介とその時代」という西谷の書物と寄り添って生きた個人の軌跡も収録されている。「付録」には「秋朱之介と関係出版社系譜」を収め、城市郎の「“昭和艶本合戦”珍書関係者系譜」よりも幅広く、さらに秋が関係した限定版や特装版の出版社が加わっていて、両者の出版人脈が重なっていることを教えてくれる。

残念ながら、私は西谷が出版した本は、操書房の戦後の二冊しか所持していない。それらはいずれも昭和二十三年発行のヴォルテール『オダリスク』(三谷幸夫訳)とアンリ・ド・レニエ『ド・ブレオ氏の色懺悔』矢野目源一訳)で、表紙のセンスは突出しているにしても、時代を感じさせる仙花紙の粗末な本である。ただ前者は献本のようで、宛名と松村喜雄の署名がなされていることから、三谷が後に『怪盗対名探偵』双葉社)や『乱歩おじさん』晶文社)などを著わす松村のペンネームだとわかる。これらの二冊だけで、秋朱之介の名前で装丁した限定版や特装版は持っていない。だから西谷のことを語る資格があるとも思えないが、このような機会を得たのだから、『書物游記』によって進めてみよう。
怪盗対名探偵

西谷は明治三十六年鹿児島県に生まれ、大正九年に上京し、正則英語学校に入学し、新橋の貯金局に勤める。そこに勤めていた文学青年の一人が澤田伊四郎で、のちにやはり限定版を扱う龍星閣を創業することになる。第一書房の『月下の一群』が出版された大正十四年の秋頃、西谷は堀口大學を訪ね、その門下に入り、大學が編集する『パンテオン』など、及び梅原の跡を受け、上森健一郎が編集していた『変態・資料』に詩を投稿したりした。その関係で西谷は上森の文芸資料研究会編輯部に入り、昭和四年にジベリウス著、西谷操訳『ウィーンの裸体倶楽部』(文芸資料研究会)を限定四四〇部で刊行する。

その後西谷は南柯書院を経て、書局梨甫、やぽんな書房、以士帖印(エステル)社を設立し、「真の出版家は芸術家、特に詩人または美術家でなければならない」という理念のもとに、出版を続けた。「私はどんなに困っている時でも、出版の仕事を忘れることはなかった」。昭和八年に竹内道之助と再会し、竹内は西谷を編集長として三笠書房を創業する。二人はともに正則英語学校出身で、梅原の出版人脈に連なるメンバーだったのだ。

西谷は三笠書房で、雑誌『書物』の創刊と日本限定版倶楽部を発足させ、書物雑誌と限定本出版の結合をめざす。『書物游記』には『書物』創刊号から廃刊の十二号までの「書物後記」が収録されている。その七号に「堀内印刷所で」と題する西谷の詩の掲載があり、三笠書房の印刷を堀内文次郎が担っていたとわかる。堀内は西谷の造本に啓発され、それが二見書房の設立へとつながっているのではないだろうか。しかしそれはともかく当然のことながら、『書物』の売れ行きは思わしくなかった。西谷は八号で、毎号二千部発行していると記し、読者に直接購読と新たな読者の紹介を頼んでいる。

 本志は大変経営が苦しいのです。返品のたくさんあることと、集金の少ないことは、経営者に対して、私としても大変心苦しく、また編輯していても力がのりません。定価四十銭の襍志を七掛で大取次へ出すとして、一部の代金二十八銭の集金しかないのです。これが直接読者になっていただければ、一部の入金が四十銭になります。現在の読者が一人直接読者になっていただければ、十二銭だけぜいたくなものが作られるわけです。(中略)みなさんに御助力を願う所似も、ただ本志をより立派に、より充実した書物趣味襍志として存続させたいからに他なりません。

だがこのような願いも虚しく、『書物』は昭和九年に十二号で廃刊になり、西谷は三笠書房を去ることになる。

そして龍星閣や昭森社や版画荘の装丁や企画にたずさわり、同十七年に昭南書房を創立する。この出版社の本は未見であり、「書目一覧」で初めて知ったのだが、井伏鱒二『星空』、太宰治信天翁』、石川淳『山桜』などを刊行している。その翌年に操書房と社名を変更し、戦後になって山本周五郎の時代小説を六冊、山本の一人雑誌『椿』を出版している。その事情は西谷による「山本周五郎をひらく鍵」にふれられているが、出版者と著者の出会いの意外性を教えてくれる。木村久邇典の『山本周五郎・横浜時代』(福武文庫)を開いてみると、『椿』は幻の雑誌だったが、書誌学者の大屋幸世によって発見されたという記述にぶつかった。さらにまた操書房は昭和二十四年にカストリ雑誌『猟奇読物』も創刊している。芸術としての出版からカストリ雑誌の刊行に至る西谷操の軌跡は実に興味深いが、最後に行き着いたと思える操書房の全貌も明らかではない。

なお『書物』全十二冊の内容明細は、日本古書通信社の書誌研究懇話会編『書物関係雑誌細目集覧』2に掲載され、それらを見ると、寄稿者は艶本三笠書房人脈に加えて、ロシア文学の翻訳者たちも含め、さらに広がっていたと思われる。しかしそれに反して、読者は増えず、持続できなかったのであろう。

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