前回で「ゾラからハードボイルドへ」というタイトルの連載の目的は終わりにこぎつけたのであるが、番外編として、もう一編付け加えておきたい。このような機会を逸すると、あらためて書くこともないように思われるからだ。
これまで書いてきたように、私見によれば、十九世紀後半のフランスの社会と家族を描いたゾラの「ルーゴン=マッカール叢書」は、北アメリカにおいて、ハードボイルドとして継承されただけでなく、フォークナーの「ヨクナパトファ・サーガ」へとも接ぎ木された。そしてフォークナーを経由して、南アメリカへも移植され、二十世紀後半に出現したラテンアメリカ文学の豊饒な作品群に多くの影響を与えたのではないだろうか。
その典型的な例として、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』 (鼓直訳、新潮社)を挙げることができる。「百年」というキーワードから連想しただけでも、ただちにゾラの『パスカル博士』 (拙訳、論創社)、フォークナーの『アブサロム、アブサロム!』 (高橋正雄訳、講談社文芸文庫)を思い浮かべてしまう。
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ゾラの『パスカル博士』 は「ルーゴン=マッカール叢書」の最終巻にあたり、一族の観察者であり、見者たるパスカルを主人公としている。彼は三十年以上にわたって、ルーゴン=マッカール一族を追跡し、多様なメモ、資料、論文などの研究を集積し、それは一族の「家系樹」によって象徴されている。そして彼は一族の歴史や出来事を物語ると同時に、その祖たるアデライード・フークを始めとする人々を看取り、自らも妊娠中の妻にして姪のクロチルドを残し、狭心症で死んでいく。彼の一族に関するメモ、資料、論文などはおぞましい記録ゆえに、母フェリシテによって大いなる炎の中に投じられ、無残にも燃え尽きてしまう。あたかもそれまでの十九巻にわたるルーゴン=マッカール一族の物語が幻であったかのように。
フェリシテは記録の焼却とともに、一族のおぞましい真実を葬り去り、家族の歴史を偽造し、神話を樹立するために、全財産を寄付してプラッサンに養老院を建てるのだ。その地鎮祭のファンファーレを聞きながら、クロチルドはかろうじて守った「家系樹」をかたわらにして、パスカルとの間に生まれた息子に乳を飲ませ、この子供に未来を託す場面で、「ルーゴン=マッカール叢書」の最終巻は閉じられている。この『パスカル博士』 の拙訳はまったくの本邦初訳であり、「叢書」の十九巻の要約も施されているので、「叢書」の「ダイジェスト」としても読むことができる。だからこの連載で、いささかなりとも「ルーゴン=マッカール叢書」に関心を持たれた読者はぜひこの一冊に目を通してほしいと思う。
またフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』 は「ヨクナパトファ・サーガ」の頂点に位置する作品で、これもまた「百年」の射程を孕んだアメリカ南部の物語である。しかし『アブサロム、アブサロム!』 は『パスカル博士』 と異なり、フォークナー特有の難解な手法が駆使され、過去と現在が交錯し、歴史的時間軸は寸断分割され、南部のサトペン家の宿命的な悲劇と没落が語られていく。その巻末にはフォークナー自身による物語の「年譜」と「系譜」、及び「サーガ」の舞台であるヨクナパトファ郡ジェファソン町の地図が付されている。しかもその主たる話者のクエンティンは『響きと怒り』の中で描かれた名家コンプソン家の長男で、自殺する宿命を孕んでいるのだ。死に至るクエンティンが述べるコンプソン家とサトペン家の物語は、パスカルが追跡し研究してきたルーゴン=マッカール一族の軌跡と重なるかのようで、「ルーゴン=マッカール叢書」と「ヨクナパトファ・サーガ」の類似を想起させるのである。
そしてガルシア・マルケスの『百年の孤独』 に至って、この作品は「ルーゴン=マッカール叢書」と「ヨクナパトファ・サーガ」を一作に圧縮してしまったかのような印象を与える。また換言すれば、フランスにおける「叢書」と北アメリカが生み出した「サーガ」という二つの物語群が、ラテンアメリカの地へと、大胆きわまりなく移植されたのではないかという思いにかられるのだ。
マコンドという架空の村、ブエンディア一族の百年にわたる年代記、そこに付されたブエンディア家の家系図、同名異人による人物再現法、ファミリーロマンス、現実と幻想が交錯する神話的世界などの『百年の孤独』 の物語コードは、「叢書」と「サーガ」を出自としているのではないだろうか。
それらを自家薬籠中のものとして取りこみ、さらにマルケスとラテンアメリカ文学の特質である所謂「魔術的リアリズム」を全編に張り巡らし、成立した作品が『百年の孤独』 だったと見なすこともできよう。ブエンディア家の奇矯にして多彩な一族はその全員が孤独という病に取りつかれ、無数のエピソードと事件の中で、百年の歴史を生きていく。その一方で、マコンドはバナナ景気によって村から市へと成長していく。この歴史の進行において、ブエンディア家の同名異人による人物再現法は円環的時間の流れを象徴するようで、物語の終わりを迎えると、マコンドもブエンディア家の人々も蜃気楼のように消滅してしまうのだ。「この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところになる」。この言葉は百年前にジプシーのメルキアデスが遺した羊皮紙の題辞であり、そこにはサンスクリット語で書かれた一族とマコンドの歴史がすでに書き記されていたのである。
一族の末裔アウリャノ・バビロニアはマコンドが廃墟と化する中で、羊皮紙を解読し、ブエンディア家の謎を解いていく。そして彼は最後の行に達するまでもなく、部屋から出る時が来ないことを知った。そして最後の文章に至り、『百年の孤独』 は閉じられている。それを示す。
なぜならば、アウリャノ・バビロニアが羊皮紙の解読を終えたまさにその瞬間に、この鏡の(すなわち蜃気楼の)町は風によってなぎ倒され、人間の記憶から消えることは明らかだったからだ。また、百年の孤独を運命づけられた家系は二度と地上に出現する機会を持ちえないため、羊皮紙に記されている事柄のいっさいは、過去と未来を問わず、反復の可能性のないことが予想されたからである。
このようなマコンドとブエンディア家の一族が、ラテンアメリカとそこに生きることを宿命づけられた人々のメタファーであることはいうまでもないだろう。
ガルシア・マルケスがフォークナーの影響下に文学的出発をとげ、『百年の孤独』 にもそれは明らかだが、ゾラに関しては管見の限り言及されていないと思われる。だからここではゾラとの関連について書いてみる。『百年の孤独』 と『パスカル博士』 の類似するファクターを前述したが、それは「ルーゴン=マッカール叢書」の第一巻『ルーゴン家の誕生』 (伊藤桂子訳、論創社)にも認められるのである。
『百年の孤独』 はマコンドに毎年訪れ、様々な新しい品物をもたらすジプシー一家のいくつものエピソードから始まっている。そのうちのメルキアデスを名乗るジプシーが絶えずブエンディア家の人々と物語に併走し、メルキアデスこそが一族の歴史を記した羊皮紙を遺していくのだ。それゆえに『百年の孤独』 は「村のはずれにテントを張り、笛や太鼓をにぎやかに鳴らして新しい品物の到来を触れて歩いた」ジプシーによって幕が開けられ、また幕が閉じられている。その意味において、まれびとのようにマコンドを訪れてくるジプシーによるにぎやかな一幕の狂言として読むこともできる。
実は『ルーゴン家の誕生』 のプラッサンにおいても、ジプシーが物語の導火線を示すかのように出現している。ルーゴン=マッカール一族の祖であるアデライード・フークは、プラッサンのかつての墓地だった地所で育ち、ルーゴンと結婚し、また彼との死別後、マッカールを愛人とし、三人の子供をなすことで、「叢書」をスタートさせる。旧墓地は一世紀以上にわたって死体を詰めこんできたので、死臭がただようようになり、別の場所へと墓地を移さざるをえなかった。その土壌は死体によっておそろしいほど肥沃であり、春がめぐってくるたびに不気味なほど密生した草木に覆われ、緑の大海原を形成するに至ったのだが、かつての死の野原はずっと恐怖の対象で、プラッサンにおける見捨てられた土地だった。そこに「叢書」の物語の露払いのように、ジプシーが出現するのだ。
最後にこの見捨てられた片隅に奇妙な色合いを添えたのは、渡りのジプシーが先祖代々からここを居住地に選んだことであった。一族全員を乗せている移動家屋がプラッサンに到着するや、サン=ミットル平地の奥の方に入り込むのだ。そんな次第で広場は空き地ではなくなった。野獣のような男や恐ろしく干からびた女の集団といった、おかしななりをした群がいくつもできていて、その中には地面を転げまわるかわいらしい子供たちのグループもある。この連中は戸外で衆目にさらされても恥ずかしがらずに暮らし、煮炊をし、得体のしれないものを食べ、穴だらけのぼろ着を広げ、寝て、殴り合いをしたり、抱き合ったりして、不潔と悲惨の悪臭を漂わせている。
プラッサンの死者たちの埋葬された土地、ジプシーたちが住み着き、肥沃な土壌ゆえに草木が繁茂する土地から、「ルーゴン=マッカール叢書」は始まり、一族の繁殖と広がりはパリを中心としているが、フランス各地へと及んでいく。あたかもそこに住みついたジプシーと交代するかのように、『百年の孤独』 においてもジプシーのメルキアデスはマコンドに住みつくのである。それゆえに『百年の孤独』 と「叢書」はジプシーという共通の物語ファクターを有している。その他にも一族の祖アデライード、及びルーゴン家を立ち上げていくピエールとフェリシテ夫婦の肖像は、『百年の孤独』のブエンディア家のホセ・アルカディオとウルスラを彷彿させずにはおかない。それに考えてみれば、「叢書」に登場する人々が抱えている病も、新しい社会を迎えてのものであり、それは「近代の孤独」と称ぶことができるかもしれない。
もちろん『百年の孤独』 には近代文学から現代文学に至る様々な手法がこれも圧縮化して導入され、引用、パロディ、デフォルメに充ちていることは明白である。だからすべてが「ルーゴン=マッカール叢書」と重なり合っていると言うつもりはない。しかし間違いなくゾラの「叢書」もマコンドにいくばくかの陰影を落としていると思われる。
ここまできて、「ゾラからハードボイルドへ」の仮説にようやく終止符を打つことができる。それは言うまでもなく、とりあえずの終止符であるが、長きにわたって読んでいただいた多くの読者に謝意を表する。次回からは「謎の作者 佐藤吉郎と『黒流』」を連載する。こちらもよろしければ、お出かけあれ。
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ゾラからハードボイルドへ27 スティーグ・ラーソン『ミレニアム』 |
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