出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

2 アメリカ密入国と雄飛会

  

◆過去の「謎の作者 佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』


2 アメリカ密入国と雄飛会

『黒流』は全十四章立てで、その第一章は「国境」と銘打たれ、北アメリカとメキシコの国境のシーンから始まっている。それは近代文学の書き出し、及び自然、風景描写として極めて斬新で異色なものではなかっただろうか。谷譲次がアメリカ体験をベースにして、『新青年』を中心に「めりけんじゃっぷ」シリーズを発表し始めるのが、『黒流』の出版と同年のやはり大正十四年である。しかしこのような静謐でありながらも、一読して印象に残る鮮やかなアメリカ風景を描写する文体を有してはいなかった。その書き出しの一節を引用してみる。

 夕陽が真紅な色を空に残して、平原の果てに厳かな歩調で沈んで行くと四辺りは刻一刻と夕闇みに包まれて来た。そして綿畑の実丈けが白く浮き出した様に見えてくる中を、牧場から牛の唸る声が夕闇みを伝ふて綿の実を震はす様に響いて来て、その一声一声が又夕闇みの中に融け消えて行く毎に、夜の静寂と暗黒が深められて行く様に感ぜられるのであつた。

二月の夜だった。主人公の荒木雪夫はこの風景の中に身を潜め、メキシコからアメリカへと密入国しようとしているのだ。国境沿いに流れる小川と土堤、暗闇の中を通り過ぎるメキシコ人の幌馬車、アメリカ側の国境線に添う道を走る、探照燈をともし、密輸入を監視する税関吏の自動車、馬に乗った見張りの移民官たち。荒木はチャンスをうかがい、川を渡り、アメリカの平原に出て、全速力で歩き始める。何時間か歩くと、前方にポプラの樹に囲まれた家があり、彼は疲労と寒さを覚え、そこの馬小屋に入り、乾草の中にもぐりこみ、深い眠りに落ちた。そして朝になって誰かに起こされ、日本語を耳にして、「同胞だ。日本人だ! 天祐だ!」と思い、乾草の中から躍り上がり、「ぼくは日本人ですよ、アメリカ人でもメキシカンでもありませんよ」と叫んだ。奇遇なことにそこにいた二人は旧知の東と小山だった。荒木のみすぼらしい姿と長髪、髭面のために二人はすぐに彼だとわからなかった。国境に近い平原での三人の邂逅は夢のような出来事だった。去年から二人はこの帝国平原で営農し、今年は十人近い労働者を雇い、二百エーカーの瓜栽培を試みていた。三人は馬小屋を出て、家の方に向かったが、家のように見えたのはテント張りの住居だった。開拓が進行する土地ではどこでもテント生活なのだ。荒木はパンとバター、卵とコーヒーでもてなされ、ようやく人心地がついた。三人は横浜港で別れて以来、三年ぶりの再会だった。三年前に荒木は南アメリカに向かい、東と小山は北アメリカへ渡ったのだ。

そして第二章の「回想」において、荒木の日本での生活とメキシコへ至る経緯が明らかにされる。彼は東北の豪農の長男で、郷里の中学を卒業して上京したが、中学の成績は首席を占めていたにもかかわらず、進学するつもりはなく、実際の社会を研究するためだった。同じ下宿でやはり東北の資産家の息子の剛島と知り合いになった。剛島は十六歳の時から故郷を飛び出し、満州などを放浪してきた男であり、雄飛会という団体に属し、その会長の大海平助を尊敬していた。剛島によれば、現在における「白色人種の横暴」に対して、大海は「我が民族の世界的雄飛と有色人種全体の結合蹶起」を叫ぶ「偉大なる先覚者」で、「今では全世界の到る処に雄飛会員が散在して会の目的の為に奮闘」しているとのことだった。荒木は剛島に誘われるままに、巣鴨の雄飛会を訪ね、「世界を二度も一周して来てる」大海に出会い、「畏敬の念」を覚え、大海の勧めによって雄飛会の会員になることを決意した。その会堂で東や小山とも仲間になったのである。

そうしているうちに春が過ぎ、真夏になった。暑い夜、荒木と剛島はカフェに入り、女給の春子と知り合った。たちまち荒木と春子は恋に落ちてしまった。春子の母は名のある新劇女優、父は子爵の長男で、春子は私生児として生まれ、母はカフェを経営しながら娘を女学校に入れ、育ててきたのである。その話を聞き、「此の女性は俺が抱擁せねばならないのだ!」と荒木は思い、春子に求婚し、彼女の母の了承を得る。しかし荒木はまずメキシコに赴かねばならない。「彼はもうメキシコの大地を夢見て居た。常緑の高原を駿馬に乗つて疾軀する自分の英雄的な姿さへ描いていた」。春子は後で呼び寄せればいいのだ。出発の前夜、二人は結ばれる。その時の春子の心的現象は次のように描写されている。

 彼女は男の狂熱的血潮の流れが、自分の体内に激流となつて伝つて来る様に感じた。
 彼女は抱かれ乍ら、自分の恋人を英雄に擬へて考へた。そして自分はその寵愛を一身に受けて居る后(きさき)であると思つた。自分の良人(おつと)は自分を熱愛して居る。其の愛には偽りが無い―けれどは良人は英雄である―一度戦が始れば其の愛する后を後に残して勇ましく出陣して行くのである……。
 斯うした幻想に囚れて居る中に、彼女は荒木が真の英雄の様に思はれて来た。昔の英雄と何ら変りのない勇しい男に思はれて来た。

「白色人種の横暴」に対して、「我が民族の世界的雄飛と有色人種全体の結合」の運動のためにメキシコに向かおうとする荒木は、ここに至って春子から「英雄」と擬せられ、春子自身もその「后」であるとの「幻想」を抱くようになった。一介の兵士でも、単なる銃後の妻でもない。二人は「英雄」とその「后」であり、聖なる戦いに参加する神話的な存在と化したのだ。
その翌日、荒木と剛島は大海会長と雄飛会会員たちの「荒木、剛島両君万歳! 雄飛会健児万歳!」の声、春子母娘に見送られ、横浜港から旅立った。荒木はメキシコへ、剛島はブラジルへ向かうのだった。「出帆合図の汽笛が鳴つた。長く長く尾を引いて鳴つた。悲壮に聞えるのであつた。別けて愛する者と別れ行く人々に取つては断腸の思ひを起させる汽笛であつた」。横浜を出帆した南米航路の移民船はハワイ、サンフランシスコを経て、メキシコに着き、荒木は剛島と別れ、上陸した。その過程で、アメリカの移民官による厳重な監視、メキシコに送還されるインド人と日本人の密入国者たち、海に飛びこんで密入国を企てた二人の沖縄県人、写真結婚で渡航してきた女性たちが周到に配置され、その時代の海外移民の実態を露出させている

次回へ続く。