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古本夜話73 乱歩以後のJ・A・シモンズ

一九八〇年代から九〇年代にかけて、同性愛に関する重要な研究が次々と翻訳され始めた。それらはケネス・ドーヴァーの『古代ギリシアの同性愛』(中務哲郎・下田立行訳、リブロポートのち青土社)、ジョン・ボズウェルの『キリスト教と同性愛』(大越愛子・下田立行訳、国文社)、エヴァ・C・クールズ『ファロスの王国』(中務哲郎・久保田忠利・下田立行訳、岩波書店)で、前二書にはシモンズのA Problem in Greek Ethics が参考文献に挙げられている。またミシェル・フーコーの死によって三巻で中絶してしまった「性の歴史」渡辺守章・田村俶訳、新潮社)にシモンズへの言及はないが、ドーヴァーやボズウェルの著作が引用文献となっているので、シモンズに対する注視は江戸川乱歩からフーコーに至るまで継承されていることになるだろう。

古代ギリシアの同性愛 キリスト教と同性愛 A Problem in Greek Ethics 性の歴史 性の歴史 性の歴史

これらの翻訳書だけでなく、〇五年になって広範にして画期的な同性愛についての日本人による著作が刊行された。それはこれまで何度か書名を挙げてきた海野弘『ホモセクシャルの世界史』(文春文庫)である。もちろん同書は前述の研究に加え、さらに多くの資料を収集し、かつてないパースペクティヴで文字通りの「世界史」となっている。またフーコーの眼差しを踏まえ、ホモセクシャルは特別な人たちに限定されるのではなく、すべての人間に関する問題、人間とは何かに関する問題であり、異性愛と同性愛の区別は決して古いものでもなく、この百年ほどの間、すなわち二十世紀の問題だという視点に貫かれている。海野は第二部の「二十世紀 性の世紀」を始めるにあたって、次のように書いている。

ホモセクシャルの世界史

 二十世紀はどんな世紀であったか? いろいろな切り口があるだろうが、〈性〉がこの世紀のキーワードの一つであることは確かだろう。〈性〉は、ジェンダーの問題としてもセクシャリティの問題としても一般的に論じられるようになった。〈性〉についてこれほど語られることはなかった。
 〈性〉によって、男と女が分けられる。男と女が分けられると、人間の他者は、男と女の二種類があることになった。ある意味で、近代は〈セクシャアリティ〉を意識し、〈ホモセクシャリティ〉を目覚めさせたといえるかもしれない。

海野はその前史を十九世紀の大英帝国の黄金時代の謎の中に見出す。それは男性中心の社会で、クラブからパブ、軍隊からスポーツまで、男だけの世界が花盛りだったが、ホモセクシャルはタブーとされていた。それはアカデミズムの世界も連動し、十九世紀半ばにオックスフォード大学の改革運動によって学問研究の新たなる地平が開かれ、ギリシャ古典学、ヘレニズム研究が深まり、そのことを通じて、ギリシャ的な愛、プラトニズムが再発見される。これらの研究はキリスト教神学に対するオックスフォードの超越的価値の基礎を形成することになった。そこから詩人や作家たちがホモセクシャルな言語を取り出し、理想や超越的世界での男同士の愛を語り始め、それはまた島国の英国が、急速に変わろうとしているヨーロッパ大陸から取り残されるという不安から、ギリシャによる英国の活性化をめざすものでもあった。

その中心にいたのがシモンズ、スウィンバーン、ウォルター・ペイターたちだった。またそこにオスカー・ワイルドを加えることもできるだろう。そういえば、シモンズと同様にスウィンバーンやペイターもギリシャ文学とルネサンスに深く通じていたし、ペイターには『ルネサンス』(別宮貞徳訳、冨山房百科文庫)がある。またこのような背景からポルノグラフィの定番とされるスウィンバーンの『フロッシー』(江藤潔訳、晶文社)やピエール・ルイス『アフロディテ』沓掛良彦訳、平凡社ライブラリー)が生まれたとわかる。

ルネサンス フロッシー アフロディテ

そして海野は一九八六年に刊行されたフィリス・グロスカース編『ジョン・アディントン・シモンズの回想―十九世紀の代表的文人の秘められた同性愛生活』(シカゴ大学出版局)を俎上に載せる。海野はこれが「衝撃的」で、発表されることなく秘蔵されていた回想で、「シモンズは自分のセクシャリティについてきわめて率直に語り、見事なヒューマン・ドキュメントをつくり上げた」と評している。乱歩はシモンズの自伝をベースにしたH・F・Brown, J・A・Symonds : A Biography(1865)が、意図的に同性愛に関する部分を削除しているのではないかと推測していたが、おそらく一世紀以上を経て、無削除版の出版が可能になったのであろう。

海野の紹介によれば、シモンズは父に同性愛を打ち明け、何人もの少年や若者との関係も率直に述べられているという。またそれらの関係はスキャンダルになったこともあり、父は息子に同性愛を禁じ、シモンズは父の強制と自分の欲望の間で引き裂かれ、発作を起こして倒れたりしたこともあったようだ。

乱歩は『探偵小説四十年』の昭和八年の「J・A・サイ(ママ)モンズ」」の項で、乱歩が「ひそかなる情熱」としたように、「彼は実行家ではなかった。あくまで極秘の情熱として、研究にかこつけて、その片鱗を吐露していたにすぎない」と断定したのは間違っていたことにある。ホモセクシャルの闇もまた限りなく深い。
探偵小説四十年

またここで「昭和三十五年追記」として、乱歩は「ギリシャ道徳の一問題」(A Problem in Greek Ethics )が寿岳文章の「シモンズ私版略考」(『書物の道』所収、書物展望社、昭和九年)に詳しく紹介されていることを記している。

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