出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

22 東北学院と島貫兵太夫


◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』
2 アメリカ密入国と雄飛会
3 メキシコ上陸とローザとの出会い
4 先行する物語としての『黒流』
5 支那人と吸血鬼団
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人
7 カリフォルニアにおける日本人の女
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち
9 黒人との合流
10 ローザとハリウッド
11 メイランの出現
12『黒流』という物語の終わり
13 同時代の文学史
14 新しい大正文学の潮流
15 『黒流』の印刷問題
16 伏字の復元 1
17 伏字の復元 2
18 ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』
19 モーパッサン『ベラミ』
20 ゾラ『ナナ』
21 人種戦としての大衆小説

22 東北学院と島貫兵太夫

佐藤吉郎の『黒流』についての物語の特異性、及びそれに影響を与えたと思われるヨーロッパ世紀末文学に言及してきたが、著者である佐藤吉郎のことは「自序」の言にある「私は一箇の放浪者だ。十九の秋から八年の間は、殆んど南洋に、メキシコに、キューバに、北米にと云ふ様に放浪の旅を続けて居た」という自己紹介しかわかっていない。しかし「『黒流』は云はば、此の放浪時代の記念塔だ」と記されているし、佐藤吉郎の体験が主人公の荒木雪夫に投影されているのは確実であろう。とすれば、荒木がそうであるように、佐藤も東北の出身で、中学を卒業して上京し、雄飛会のような団体に所属し、それこそ自ら言う如く「十九の秋から八年の間」、海外放浪の旅を続けてきたのではないだろうか。

そのように考えてみると、『黒流』の出版社である東北書房の社名も、出身地方、もしくはその人脈ゆえに選ばれた可能性もある。そしてエピグラフに掲げられた『聖書』の一節、本体の『聖書』を彷彿させる黒地の装丁は、明らかに佐藤吉郎がキリスト教に入信、もしくはかかわりの深い場所にいたことを示している。これらの海外放浪、東北、雄飛会のような団体、『聖書』とキリスト教というキーワードを統合していくと、奥付にあった「大売捌所」としての日本力行会に突き当たらざるをえない。前述したが、ここに「大売捌所」として挙がっているのは六社で、日本力行会以外は東京堂などの確固とした取次であり、日本力行会だけが所謂出版業界における正規の取次ではないからだ。そうでありながらも、日本力行会が「大売捌所」のトップにすえられている。それならば、日本力行会とは何なのか。

まずは東北とキリスト教の関連からいえば、押川方義の名前が必然的に浮かんでくる。押川は嘉永四年に伊予松山に生まれ、十九歳で松山藩の選抜学生となり、東京の開成校に入学し、さらに横浜英学校に入り、明治五年に宣教師の感化を受けてキリスト教に入信し、横浜バンドの一員となり、横浜公会の創立に参加した。その後明治十三年に仙台に移り、東方伝道の基盤を固め、同十九年に仙台神学校(後の東北学院)を創設して院長となり、また宮城女学校も創立している。そして三十四年には東北学院を去り、実業界と政界に進出し、大正六年には衆議院議員となっている。文学的関連でいえば、冒険小説家の押川春浪はその長男であり、明治三十三年に『海底軍艦』を著し、たちまち少年読者を得て、次々に新作を発表し、「冒険小説」という名称を定着させたとされる。

そこで古本屋で買ったままであった川合道雄の『武士のなったキリスト者 押川方義管見(大正・昭和編)』を読んでみた。するとやはりキリスト者で、東京神田橋に日本教会(後の道会)を創立した松村介石の言として、島貫兵太夫という人物の追想文が引かれ、島貫が「東北学院に其人あり」と知られ、「東京に来たりても……力行会を起して、大に其志を遂げ」とあり、さらに彼の注として、『東北学院百年史』よりの抜粋が付され、次のような紹介がなされていた。

 島貫は一八六六(慶応二)年八月十八日、伊達家の古老古内家御預りの士族、島貫寛次の次男として宮城県岩沼(現岩沼市)に生まれた。
  一八九三(明治二十六)年の東北学院第一回卒業生となり、日本橋元大工町教会牧師として伝道のかたわら、苦学生のための東京労働会を創始、のちの力行会を興して日本の海外移民の先駆者となる……。

ここでようやく日本力行会が島貫兵太夫によって設立されたことがわかった。そして平凡社『日本人名大事典』(昭和十二年刊行の『新撰大人名辞典』の複刻)を引いてみると、島貫兵太夫が立項されていた。

 シマヌキヒョーダユー 島貫兵太夫(一八六六―一九一二) 日本力行会創立者。牧師。伊達政宗の家臣島貫兵太夫の裔。慶應二年八月十八日陸前岩沼に生る。十四歳のとき小学校教員となり増田小学校に在職中キリスト教信者となり、牧師たらんと志して明治十九年東北学院神学部に入り、時の院長押川方義の感化を受くるところ大であった。卒業後東京に出て貧民救済、貧困学生救済に力を注ぎ、また神田教会を設立してキリスト教の伝道に力めた。ついで明治三十年「日本力行会」を設立し、また日本実業学校、日米女学校を起して、苦学生の救済と共に海外発展の必要を唱へ、その実際的方面に尽力した。明治四十五年九月六日没、年四十七。(東亜先覚志士記伝)

島貫の生涯と日本力行会の経緯が簡潔に述べられ、これを読むことで両者のプロフィルが立体的になってきた。この文章を写しているうちに、中村屋相馬黒光が確か仙台生まれにして宮城女学校の出身であったことを思い出し、彼女の自伝『黙移』法政大学出版局)を再読してみた。そこで彼女は冒頭から小学生時代の教会体験を語り、「私の一生はもうこの時にきまったようなものでありました」と述べ、その理由について、この教会に押川方義とその弟子の島貫兵太夫がいたからだと記し、二人に対する深い傾倒を示すかのように両夫妻の写真まで掲載している。さらに黒光の相馬愛蔵との結婚も島貫の勧めによっているのであり、東北のキリスト教伝道者として著名な押川方義と異なり、その弟子の島貫の存在は広く知られていないと思われるが、日本力行会に象徴されるように、独自の道を歩んだキリスト教牧師であったことがわかる。
黙移

次回へ続く。