◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事 |
1 東北書房と『黒流』 |
2 アメリカ密入国と雄飛会 |
3 メキシコ上陸とローザとの出会い |
4 先行する物語としての『黒流』 |
5 支那人と吸血鬼団 |
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人 |
7 カリフォルニアにおける日本人の女 |
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち |
9 黒人との合流 |
10 ローザとハリウッド |
11 メイランの出現 |
12『黒流』という物語の終わり |
13 同時代の文学史 |
14 新しい大正文学の潮流 |
15 『黒流』の印刷問題 |
16 伏字の復元 1 |
17 伏字の復元 2 |
18 ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』 |
19 モーパッサン『ベラミ』 |
20 ゾラ『ナナ』 |
21 人種戦としての大衆小説 |
22 東北学院と島貫兵太夫 |
23 日本力行会とは何か |
24 日本力行会員の渡米 |
このような大正期におけるアメリカ事情と滞米力行会員たちを挙げたのは、すべてではないにしても、これらの背景、及びそれぞれの人物たちの仕事や活動やキャラクターが『黒流』の中に流れこんでいると考えられるからだ。そしてここでようやく佐藤吉郎に言及できる。
『日本力行会百年の航跡』にはかなり詳細な「明治期の海外渡航会員」と「ブラジル移住会員」のリスト、大正五年から昭和五十一年にかけての「修養部、海外学校、南米開拓講習所等在籍者名」が収録されているのだが、それらに佐藤吉郎の名前は含まれていない。リストが不在である大正前期の会員とも考えられる。しかし本文の中に二ヵ所はっきりと彼の名前が出てくる。やはり大正期におけるアメリカに関する記述の部分においてである。その頃の在米会員はサンフランシスコから少し東に入った平原のスタクトン市に多くがいた。ここには明治期に渡米して成功した石丸正吉の広い土地があり、ポテトや玉葱栽培に適し、「クリスチャン・ファーム」と呼ばれていた。
こんな関係からスタクトンには新旧の力行会員がよく集い、働いていた。大正八年サンフランシスコに上陸した会員は相原三郎、古田純三、荒木定雄、伊藤徳家、田中諠一、湯田維、野口伊平、清水茂重、大東八郎、等々力利明等十名あまりで、(中略)当時北米支部長をしていた谷常男らの世話になって、彼らはスタクトンのクリスチャン・ファームへ行って働いた。ここには先輩の伊原恵作、西村進、宮尾厚、安藤勇、佐藤吉郎などが前から働いていた。
前記の十人のうち九人は前述のリストに掲載されているが、後記の五人のうちでリストにあるのは安藤勇だけだ。明治二十六年生まれ、長野県高井郡出身、大正五年在学、メキシコに向かったと記されている。安藤以外の三人も掲載されていないので、前記の人たちとは異なり、「先輩」とあるから、同じように大正前期会員だったのではないだろうか。それでもその後に宮尾と伊原についての言及がなされ、宮尾はメキシコ、キューバを経てスタクトンの農場に着いたが、十年に帰国し、力行会幹事となり、昭和三年にブラジルに力行農園を開設するために入植、伊原は宮尾よりも早く大正十年に同じくブラジルに入植し、力行会員の本格的なブラジル移住の第一陣となった。安藤もメキシコに向かい、タンピコ市で農園を経営し、成功するとあった。西村については何も記されず、佐藤に関してはもう一度、「古田純三、柏原三郎等は佐藤吉郎、等々力、清水(中略)等と一緒にモデスト(スタクトンの隣の市―引用者注)の農場でも働き」と名前が出てくるだけである。したがって日本力行会の歴史の中で、西村と佐藤のその後は空白になっているし、この大冊においても、この部分にしか登場していない。
しかしこれまで述べてきた佐藤吉郎をめぐる環境から推測すれば、『黒流』の第一章の「国境」に描かれている風景や様々な場面などがほぼ事実のように思えてくる。そして『黒流』における雄飛会は力行会、その会長の「長髯を生やして眼光の鋭い長躯の人物」大海平助は島貫兵太夫をモデルにしていることがわかる。
さらに付け加えれば、東や小山を始めとする日本人たちも力行会員をモデルにしているのであろう。だが力行会の「霊肉救済」に基づく「苦学援助・渡米奨励」は『黒流』の物語におけるアグレッシブなテーマである「人種戦」に結びつかないように見えるし、公的な正史ともいうべき『日本力行会百年の航跡』にも当然のことながら、排日の記述はあっても、あからさまな人種差別問題に関する深い言及はない。まして「人種戦」などという言葉も使われていない。
しかし日清、日露戦争とパラレルに立ち上がってきたキリスト教をベースとする力行会も時代状況の中で、海外発展運動において戦闘的な側面を秘めていたようにも思われる。それは島貫兵太夫が作詞した「力行奮闘の歌」に明らかに表われている。この歌は日露戦争後の排日に基づくアメリカへの日本人渡航者を制限する日米紳士協約が実施された後の、明治四十一年五月に作られたという。四番まである全部は引用できないので、一番だけを記してみる。
抑々我らの一生は 進むを知りて退かぬ
戦場勇士の勇ましく 闘うさまにさも似たり
弾丸つきて刀は折れ 屍は積んで山なせど
心の駒に鞭うちて 進みに進み弥進み
敵陣さして右左 縦横無尽になぎ立てて
最後の勝利得るまでは 突貫するこそ雄々しけれ
これはまさに軍歌であり、曲もまた日清戦争の黄海の大海戦を歌った軍歌「勇敢なる水兵」によるもので、集会などでよく歌われ、自然に力行会の会歌となっていったとされている。この「力行奮闘の歌」において、会員は「戦場勇士」に擬せられ、「敵陣」をめがけて進み、「最後の勝利」を得ると歌われるわけであるから、当然のごとく「敵陣」はアメリカを意味していよう。