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古本夜話88 六人社版『真珠郎』と『民間伝承』

前回横溝正史が柳田国男の主宰する『民間伝承』の読者だったのではないかと記しておいたが、実はそれを裏づけると思える事実がある。

横溝の『真珠郎』は昭和十二年に六人社という出版社から刊行されている。この作品は昭和十一年十月から翌年二月にかけて、『新青年』に連載されたもので、横溝が博文館を退社し、作家専業後に病に倒れ、回復に及んでからの上梓となっている。そのような事情が絡んでいるゆえか、「題字」は谷崎潤一郎、「序文」は江戸川乱歩、「口絵」は松野一夫、「装丁」は水谷準という豪華メンバーが担当し、自らも巻末に三十ページ近い「私の探偵小説論」を収録している。それに加えて、上製四六判、草色の箱入のこの一冊は明るい紫色の表紙で、背にやはり薄緑の書名と著者名が箔押しされ、四百ページ弱、三五ミリの束の厚さと相俟って、当時の出版物の中でも、かなり目立つ本だったのではないだろうか。しかもそれは探偵小説で、版元は紛れもなく小出版社だったからだ。

真珠郎 (角川文庫版)

もちろん私がこの『真珠郎』の戦前の初版本を持っているわけではない。昭和五十一年に角川書店が復刻した一冊を入手して、それらのことがわかったのである。おそらく角川書店は横溝ブームの著者と読者への謝恩的な意味も含め、復刻したと考えられるので、入手困難な稀覯本であり、記念すべき復刻本に値したのだろう。私の入手した一冊にはスリップがそのままはさまれ、定価二千百円の他に「買切品」の表示があった。

さてここでようやく版元の六人社にふれることができる。横溝は前出の「私の探偵小説論」の「はしがき」のところで、次のように書いている。

 今私の親切な友人の数人が出版社を興して、その最初の計画のひとつとして、私の拙い小説を出版してやらうといふので、私はこの機会に、それ等の書き散らされた草藁をひとまとめにしておかうと思ひ立つた。私はいつかこれを整理して、一貫した自分の探偵小説論を書いてみたい気があつたのだが、今のところ遺憾ながらこの時間がないので、断片的なそれらの草藁を清書するだけにとゞめて、蕪難ながらも、これに「私の探偵小説論」と命名しただけである。

六人社に関する記述はこれだけで、『横溝正史自伝的随筆集』(角川書店)、『真珠郎』(『横溝正史全集』第一巻、講談社)の中島河太郎の「解説」にも出てきていない。また江戸川乱歩の『探偵小説四十年』の昭和十二年の部分においても何の言及もなかった。そのために『真珠郎』の復刻からわかるのは、六人社が横溝の友人たちが始めた出版社で、その奥付表記から発行者が戸田謙介なる人物だということだけだった。

横溝正史自伝的随筆集 探偵小説四十年


しかし私は『真珠郎』の復刻版を入手する以前に、六人社の名前を目にしていたし、刊行物も持っていた。六人社を目にしたのは国書刊行会から復刻された戦前の『民間伝承』を調べていた時で、昭和十七年五月号の菊判になった頃から、六人社の出版広告が表二、三、四のいずれかの一ページを占めるようになり、それは昭和十九年の休刊寸前まで続いていた。その意味において、六人社は『民間伝承』と併走した出版社と見なすことができよう。

最初に広告掲載されたのは「民俗選書」で、柳田国男と郷土生活研究所の協力を仰ぎ、「我が国固有の民俗精神を具体的に鮮明にする」との言が添えられている。そのラインナップとタイトルの変更はあったが、次の第一期七冊が刊行予告されていた。それらは柳田国男『国史と民俗学』、瀬川清子『きもの』、桜田勝徳『漁人』、橋浦泰雄『民俗採訪』、倉田一郎『山の幸』、関敬吾『雨乞』、宮本常一『民間暦』である。

このうちの手元にある橋浦の昭和十八年八月刊行の『民俗探訪』の巻末広告、及び『民間伝承』の広告を確認すると、倉田と関の著作は未刊のまま終わったようだ。しかし橋浦の著書、宮本の戦後版の『民間暦』(講談社学術文庫)を読んでみても、二人が共通して挙げているのは柳田の名前と彼への深い謝辞ばかりで、六人社やその戸田謙介についての記述は何も発見できない。
民間暦

だが六人社と戸田は戦後になって、柳田国男研究会編『柳田国男伝』(三一書房)の第十章の「日本民俗学の確立」の「注」の部分に姿を現わし、戦後も出版活動を続けていたことを教えられた。その二つの「注」は次のように記されていた。六人社と戸田に関する箇所を抽出する。

 昭和二十八年五月、日本民俗学界機関紙は名称を『日本民俗学』と改め、『民間伝承』という誌名は、六人社(編集・発行人、戸田謙介)に委ねられ、昭和五十八年六月まで刊行された。

 六人社社長の戸田謙介(一九〇三〜一九八四)へ橋浦泰雄から「有意義な仕事だ」と話があり、戸田は「柳田国男編輯」と銘打つこと、三千部印刷して内千五百部は会員配布など、いくつかの協定事項を決めて引き受け、普通雑誌の体裁を切り変えた。編集面ではこれまでどおり民間伝承の会が担当し、財政面は六人社が負担していくことになったのであった。

私はこちらの六人社版『民間伝承』を見ていない。だがこれを読んで、横溝の『悪魔の手毬唄』と『民間伝承』の関係がわかったように思われた。おそらく戦前にも横溝は『民間伝承』を読んでいたと思われるが、戸田が引き受けた昭和二十八年から『民間伝承』を定期購読、もしくは献本されていた可能性が高い。『悪魔の手毬唄』の刊行は昭和三十四年だから、戸田が引き受けてからの『民間伝承』に似たような素材、もしくはヒントを発見していたのかもしれない。
悪魔の手毬唄

六人社や戸田だけでなく、柳田の周辺には多くの出版社や編集者が介在していたはずなのに、なぜかそのプロフィルはほとんど明らかになっていない。これもそれこそ「本屋風情」(岡茂雄)ゆえに、柳田国男研究においても、敬遠される領域に属していると考えるしかない。

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