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古本夜話95 改造社『世界大衆文学全集』と中西裕『ホームズ翻訳への道―延原謙評伝』

私見によれば、円本時代の平凡社『現代大衆文学全集』改造社『世界大衆文学全集』によって、新しい文学としての時代小説と探偵小説のかつてない読者層の広がりがあり、現在の時代小説とミステリーの全盛期の始まりのベースが築かれるに至った。さらに後者は拙著『古本探究』で指摘しておいたように、戦後の児童書や児童文学全集のリライト出版の種本となり、それに加えて大衆文学の多くの物語祖型を提供したと思われる。
古本探究

この『世界大衆文学全集』は昭和三年から刊行され始めたもので、江戸川乱歩『探偵小説四十年』で記しているが、菊半截判の小型本全集であることから、定価は五十銭と安く設定され、これは全八十巻に及ぶ全集だった。この全巻明細は拙著に資料として収録しておいた。乱歩がこの全集に言及したのは探偵小説関係のものが自らの翻訳も含めて二十一冊も収録され、昭和四年という「探偵小説出版最盛の年」の先駆けだったからである。乱歩の言を引いておく。
探偵小説四十年

 昭和四年度の小型五十銭本全集に先鞭をつけたのは、先の円本の場合と同じく、やはり改造社で、同社の世界大衆文学全集がそれであった。
 円本が一通り行渡ってしまったので、この上、大量の読者を得るためには、更らに廉価な本を出す外はなかった。改造社は円本の元祖だけに、最も早くそこに気づいたのであろう。そして、大宣伝をやったので、世界大衆文学全集は、初期の配本では十数万部の売行きを見たのだと思う。各社の探偵全集は、この先例に味をしめて企画されたものである。

だが残念なことに、この全八十巻という翻訳の大部の全集の企画と編集の事情は乱歩も言及しておらず、詳細は不明である。しかし訳者として、『新青年』の初代と三代目編集長の森下雨村延原謙が参加していることからすれば、二人と『新青年』の執筆者人脈が深くかかわっていた可能性が高い。森下はフレッチャーの『ダイヤモンド・カートライト事件』(第八巻)、延原はドイルの『シヤアロツク・ホウムズ』(第二十一巻)を担当している。

前回森下雨村のことを書いたが、やはり延原も『新青年』編集長というよりも、新潮文庫のホームズの全訳者として記憶されていただけだったと思われる。しかし近年になって雨村と同様に論創社から『延原謙探偵小説選』が出され、中西裕によって『ホームズ翻訳への道―延原謙評伝』日本古書通信社)が刊行され、その翻訳者、編集者としての軌跡がかなり明らかになった。しかも後者の裏表紙には『世界大衆文学全集』所収のドイルと延原の口絵写真をそのまま転載使用している。

延原謙探偵小説選 ホームズ翻訳への道―延原謙評伝

中西によって明らかになった延原の出版業界とのかかわり、及びその文化環境をたどってみよう。延原は明治二十五年に同志社出身の牧師の父と同じくクリスチャンの母との間に次男として、京都で生まれたが、翌年父が亡くなり、母が教師と下宿屋を営みながら、兄と謙を育てた。その下宿屋にいたのが薄田泣菫で、後に彼は岡山の津山に移った母子を訪ね、それを日記に残している。十五歳の時に一家は上京し、大正四年に早稲田大学理工科を卒業し、逓信省の電機技師を務めていた。探偵小説に興味を覚え、古本屋でドイルの『四つの署名』の原書を見付け、それを翻訳したところ、友人が『新青年』に持ちこみ、雨村が彼の翻訳を認め、大正十一年に『古城の怪宝』(博文館)として刊行された。翻訳家延原謙の誕生でもあった。
四つの署名

そして続けて博文館の外部協力者「院外団」の一員として、『新青年』に翻訳、随筆、創作を寄稿する一方で、乱歩たちが創刊した雑誌『探偵趣味』の編集にも携わり、夢野久作海野十三を見出したりしている。そのような過程を経て、昭和三年に博文館に入り、二代目横溝正史に続く三代目の編集長に就任するのである。だからこの動向とパラレルに『世界大衆文学全集』が刊行されていたことになる。

また延原は博文館に入った後、岸田国士の妹の克子と結婚し、彼女も勝伸枝のペンネームで、『新青年』などに探偵小説を発表している。それに加えて、岸田の代表作ともいえる小説『暖流』の主人公の病院事務長のモデルは、博文館を辞した後に昭和十三年に中国へ渡り、上海の同仁会病院に努めていた延原ではないかという仮説も、中西によって提出されている。戦後パージにあった春山行夫に代わって、『雄鶏通信』の編集長を引き受け、この時代に編集部にいたのが、後にアメリカ文学やミステリの翻訳書などで名を馳せる加島祥造や井上一夫であり、向田邦子もそれを発行していた雄鶏社にいたようだ。

暖流

このような延原の翻訳者、編集者史、特異な文化人脈環境は、中西の『ホームズ翻訳への道―延原謙評伝』が初めて明らかにしたものであり、雨村にしても延原にしても、多彩な文化環境と広範な人脈を背景にして、『新青年』編集長を務めていたゆえに、『新青年』と探偵小説の全盛と神話がもたらされたのだとよくわかる。

乱歩の『探偵小説四十年』において、延原のことで最も印象深いのは「芋虫」に関するエピソードで、これは延原の意見によって「悪夢」と改題され、『新青年』の昭和四年正月号に掲載に至っている。この改題と「編集部は伏せ字だらけにして発表した」との乱歩の言について、「芋虫」は反軍国主義的な色彩が強いので『改造』でも掲載を断わられ、『新青年』に回されたため、用心深い延原が『新青年』や乱歩に当局の圧力がかからないように改題を依頼し、伏せ字を施したのではないかという推測を中西は提出している。

確かに「芋虫」のタイトルのままで、伏せ字処理を行なわなかったならば、『新青年』と乱歩にもかならずや何らかのリアクションがもたらされ、雑誌と作家のその後の運命が変わっていたかもしれないのだ。これも中西の評伝と同年に刊行された江戸川乱歩作、丸尾末広脚色作画の『芋虫』エンターブレイン)を読んで本当にそう思う。
芋虫

なお二回にわたり、森下雨村延原謙と『新青年』の編集長のことを書いてきたので、続けて四代目の乾信一郎にもふれたいのだが、少しテーマがずれてしまうこともあり、もうしばらく後で言及するつもりだ。

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