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古本夜話96 渡辺温と『ポー・ホフマン集』

改造社『世界大衆文学全集』について、もう二編書いておきたい。

江戸川乱歩『探偵小説四十年』の中で、翻訳の代作について述べ、この全集の第三十巻にあたる『ポー・ホフマン集』にふれている。
探偵小説四十年

 改造社の、私の訳となっている「ポオ・ホフマン集」も、私自身がやったのではなかった。ポオの方は渡辺温君がポオ通だったので、横溝君を介して同君にやってもらった。ホフマンの方も、横溝君を介したのだが、その人が誰であったか、今は記憶していない。渡辺温は代訳ではあるが、ポオ心酔者だったから、翻訳工場式ではなく、真面目に訳してくれた。あの訳が一部に好評だったのは、全く渡辺君のお蔭である。

前回『世界大衆文学全集』の企画と編集の経緯はわかっていないが、森下雨村と延原謙がそれぞれ一冊を担当しているので、『新青年』の編集者と執筆者人脈が深くかかわっていたのではないかと記しておいた。ここで乱歩が述べている「横溝君」というのは他ならぬ横溝正史で、『新青年』二代目編集長であり、「渡辺君」はその部下の編集者だったから、私の推測はそれほど間違っていないだろう。

さらに内容を補足しておくと、『ポー・ホフマン集』と題されているが、これはアンブローズ・ビヤースの三編も含まれている。しかしポーだけで十五編、五百ページのうちの四百ページを占めているので、口絵写真にポーと乱歩だけの掲載理由もわかるし、やはりこの巻のアイテムはポーと乱歩が売りで、渡辺の翻訳だけで一冊にするのは少しばかり足りなかったこともあり、ホフマンとビヤースが付け加えられたと思われる。

さて渡辺温についてだが、このような代訳の事実を知るずっと以前に、この名前を目にしていた。それは昭和四十五年に薔薇十字社から刊行された幻想的掌編集『アンドロギュノスの裔』の著者としてだった。それはともかく、この渡辺のポーの翻訳はあらためて読んでみても、当時の探偵小説の水準をはるかに超えるものだと断言できる。乱歩は『探偵小説四十年』の昭和五年度のところで、「渡辺温」の一章を設け、その早過ぎた不慮の死を悼み、彼こそ自分よりも「最も多くポーの影響が感じられる作家」にして、「熱心なポーの愛読者で、ポーの一行一行を味読し、理解している」と述べている。昭和八年の『江戸川乱歩全集』(平凡社)の第十三巻に渡辺訳の「黄金虫」など六編を収録したのも、乱歩の渡辺へのそのような評価と追悼の意を残すつもりだったのではないだろうか。

それでは詳細に論じることはできないにしても、渡辺の訳がどのようなものであるのかを、「黄金虫」を例にして見てみよう。まずは大正初期の最も早いポーの翻訳書である谷崎精二の「黄金虫」(『ポオ全集』1所収、春秋社)の冒頭を引いてみる。
ポオ全集

 もう何年も前のことであるが、私はウィリアム・ルグランという人と親しくなった。彼はフランス新教徒の古い家柄であって、かつては富裕の身だったが、打ちつづく不幸で貧窮におちていってしまった。その災難に伴なう屈辱を避けるために、彼は父祖の父なるニュウ・オーリアンズを去って、南カロライナ州のチャールストン付近にある、サリヴァン島に居を定めた。

次に渡辺訳を示す。

 久しい以前に私はヰリアム・ルグランド氏と親交を結んだ。彼は由緒あるユグノー系の裔で嘗つては富裕の聞えも高かつたのだが、打続く数々の不運のために次第に零落した。彼は不幸な思ひや煩はしさから逃れたかつたので、父祖の地なるニュー・オルレアンスを離れて、南カロリナのチャールストンに近い島に移り住んだ。

私の好みからすれば、「黄金虫」のこれからのミステリアスな展開のイントロダクションとして、明快な谷崎訳よりも、韻を踏んだ文学的な陰影が感じられる渡辺訳により高い評価を与えたい。そして渡辺訳はこのような奥行きのある翻訳文に終始し、最後の結びの一節も、前者が「知れないがね」に対して、後者は「知る限りではない」とこの特異な物語のクロージングにふさわしい語法になっているように思われる。乱歩は「二三の人から名訳の評を耳にした」と書いているが、渡辺ならではの訳文に魅了された読者も多くいたのではないだろうか。

乱歩だけでなく、様々なところで語られているが、渡辺は『新青年』の編集者として、阪神の谷崎潤一郎の家に原稿の催促に訪れ、その帰路、踏切事故に遭い、わずか二十七歳で亡くなっている。渡辺は大正十三年のプラトン社の映画シナリオ募集に応じた「影」によって、谷崎と小山内薫に一等に選ばれた経緯もあり、谷崎は渡辺の追悼のために、昭和六年から七年にかけて、未完に終わったが、『新青年』にマゾヒズムとサディズムの色彩に覆われた、まさにその「序」に述べられた「変態性欲」の物語「武州公秘話」を連載している。このような物語をもって、渡辺を追悼する谷崎の真意がどこにあったのかはわからない。
武州公秘話

なおいうまでもないが、ポーの訳者精二は谷崎潤一郎の弟であり、また温の兄の渡辺啓助も探偵小説家で、ポーの翻訳もともに手がけたとも伝えられている。

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