本連載46「折口信夫『口ぶえ』」のところで、『世界聖典全集』にはふれないと書いた。だが新光社の仲摩照久が高楠順次郎の『大正新修大蔵経』の出版に取り組んでいたこと、及びジャネット・オッペンハイムの『英国心霊主義の抬頭』(工作舎)を続けて取り上げたからには、ここで一度言及しておくべきだろう。
大正時代には仏教、宗教書出版が活発になり、主なものを挙げても、『真宗全書』(蔵経書院)、『日本大蔵経』(其編纂会)、『仏教大辞彙』(冨山房)、『仏教大観』(丙午出版社)、『仏教大系』(其完成会)、『世界聖典全集』(其刊行会)、『仏教大辞典』(大倉書店)などが続々と刊行され、それらの企画にはかならず高楠順次郎が加わっていた。
これらの企画の中でも、高楠はとりわけ『世界聖典全集』に力を注ぎ、『ウパニシャット全書』を翻訳刊行した。これは百二十六種のウパニシャットを翻訳したもので、インドでもこの試みはなされていなかった。この全書は八〇年に東方書院によって復刻されている。
このような高楠の驚くべき出版事業への取り組みは恩師のマックス・ミューラーの『東方聖書』に範を求め、また時代の大いなる要請と学者としての強い義務感にも突き動かされていたと考えられる。『東方聖書』に関してはよく知られていないと思われるので、『世界名著大事典』(平凡社)の「解題」を引いておく。
東方聖書 The Sacred Books of the East (50巻,1879〜1910)ミューラー Friedrich Max Müller (1823〜1900)編。編者はドイツ生まれのイギリスの宗教学者、言語学者。本編は東洋諸宗教の経典の英訳による集大成で、ミューラーの監修のもとに、20人の東洋学者が協力し、翻訳を分担した。その中にはR・デーヴィッド、H・オルデンベルク、H・ヤコーピらの諸家があり、日本からは高楠順次郎が参加し、第49巻の後半を担当している。
内容を簡略に示せば、バラモン教、仏教、ジャイナ教、ペルシアの宗教、イスラム教、中国の宗教の経典などの完全で信頼しうる翻訳であり、『東方聖書』はその後のヨーロッパにおける古代文化研究の基礎を固め、比較宗教史の豊富な材料を提供し、東洋学や宗教学の発展に一時代を画するものだったとされる。
さらに付け加えれば、オッペンハイムが『英国心霊主義の抬頭』で指摘しているように、英国心霊主義はこの『東方聖書』のサンスクリット経典に多大な感化を受け、またそこから派生した神智学、オカルティスムもすべて例外ではないと思われる。そして『東方聖書』による新たな東洋諸宗教の発見があり、高島米峰が創刊した雑誌『新仏教』のバックボーンとしてのキリストと仏陀の同一性が見出されるようになったのではないだろうか。そうした意味において、『世界聖典全集』は日本で編まれた『西方東方聖書』と見なすこともできる。煩をいとわず、それらの訳者と纂註者と内容を示す。
前輯
1 『日本書記神代巻』全 | 加藤玄智纂註 | ||
2 『四書集註』上 | 宇野哲人訳 | ||
3 『四書集註』下 | 宇野哲人訳 | ||
4 『三経義疏』上 | 高楠順次郎訳 | ||
5 『三経義疏』下 | 高楠順次郎訳 | ||
6 『印度古聖歌』全 | 高楠順次郎訳 | ||
7 『耆那教聖典』全 | 鈴木重信訳 | ||
8 『波斯教聖典』上 | 木村鷹太郎訳 | ||
9 『波斯教聖典』下 | 木村鷹太郎訳 | ||
10 『埃及死者之書』上 | 田中達訳 | ||
11 『埃及死者之書』下 | 田中達訳 | ||
12 『新訳全書解題』全 | 高木壬太郎訳 | ||
13 『新約外典』全 | 杉浦貞二郎訳 | ||
14 『コーラン経』上 | 坂本健一訳 | ||
15 『コーラン経』下 | 坂本健一訳 |
後輯
1 『古事記神代巻』全 | 加藤玄智纂註 | ||
2 『道教聖典』全 | 小柳司気太他訳 | ||
3 『ウパニシャット』一 | 高楠順次郎他訳 | ||
4 『ウパニシャット』二 | 高楠順次郎他訳 | ||
5 『ウパニシャット』三 | 高楠順次郎他訳 | ||
6 『ウパニシャット』四 | 高楠順次郎他訳 | ||
7 『ウパニシャット』五 | 高楠順次郎他訳 | ||
8 『ウパニシャット』六 | 高楠順次郎他訳 | ||
9 『ウパニシャット』七 | 高楠順次郎他訳 | ||
10 『ウパニシャット』八 | 高楠順次郎他訳 | ||
11 『ウパニシャット』九 | 高楠順次郎他訳 | ||
12 『旧約全書解題』全 | 石橋智信著 | ||
13 『旧約外典』全 | 杉浦貞二郎訳 | ||
14 『アイヌ聖典』全 | 金田一京助訳 | ||
15 『世界聖典外纂』全 | 高楠順次郎他著 |
これらの前後輯三十巻の前輯は世界聖典全集刊行会、後輯は世界文庫刊行会を発行所として、大正九年から十二年にかけて、一冊三円八十銭の予約出版形式で刊行された。前輯は葡萄色、後輯は鉄色の菊判洋布装で、私の所持しているものは五冊ほど箱入りだが、これは輸送箱とも考えられるので、箱はないのかもしれない。前輯は「有島生馬装幀意匠」との表記がある。またすでにおわかりのように、本連載83「木村鷹太郎訳『プラトーン全集』」でふれた木村も、この全集の訳者に加わっていたのだ。
世界聖典全集刊行会=世界文庫刊行会についての詳細は不明だが、前身は大正七年に『興亡史論』を出版した興亡史論刊行会で、それが世界文庫刊行会と名称を変え、『世界聖典全集』と同時期に『世界国民読本』を刊行している。両者の代表者はいずれも松宮春一郎であり、後輯の「刊行の趣旨」を「大戦乱は人間に属する凡てのものに一大動揺を与へ、わが思想界も亦その波動を受けて混乱の姿態を激進し」、「時代の先駆は声高く霊魂の覚醒を叫ぶやうになつた」と書き出している。そして世界文庫刊行会責任者として、「学習院学士 松宮春一郎」の名前が末尾に書かれ、彼が出版に携わるにしてはめずらしい学習院の出身だとわかる。
しかしその後の出版史をかなり注意してたどってみても、松宮の名前も世界文庫刊行会の存在もそこで途切れてしまう。『世界聖典全集』のような大企画を刊行した松宮がその完結以後に姿を消してしまったとしか思えないのは、関東大震災によって在庫もろとも世界文庫刊行会が壊滅的被害を受け、松宮も亡くなってしまったからではないだろうか。
その後どのような経緯と事情があってか、これもよくわからないが、『世界聖典全集』の新版が昭和四年に改造社、『興亡史論』が同五年に平凡社から、おそらく紙型再版として刊行されている。
さてそれらの出版事情に長い言及をしてしまったが、いかに高楠たちの支援があったにしても、訳者を始めとする多くのブレインを揃え、まさにミューラーの『東方聖書』に匹敵する出版を企画すること自体が途方もない力業を必要としたと思われる。しかしその甲斐があってというべきか、近年の夏石番矢や安藤礼二の研究によって、『埃及死者之書』が折口信夫の『死者の書』 『耆那教聖典』が埴谷雄高の『死霊』 の成立に大きな影響を与えたことなどが指摘され始めている。
それぞれの聖典はともかく、はっきりと広範に影響を及ぼしたであろうと想像できるのは、後輯15にあたる『世界聖典外纂』という「小さな宗教」からなる「世界宗教の鳥瞰図」で、聖典の訳者たちの他に様々な研究者が召喚され、折口が「琉球の宗教」、字井伯壽が「神智教」、鈴木貞太郎(大拙)が「スエデンボルグ」を論じている。またこれも奇妙な組み合わせに思えるが、松宮が「バハイ教」を担当し、十九世紀の半ばにペルシャで予言者バブが宣言した「光の教」としての宗教を解題している。
これまで書いてきたように、『世界聖典全集』は版元、発行者、内容も含めて、多くの謎が秘められている。刊行後、すでに一世紀近くが過ぎようとしているが、この全集についての本格的な研究はまだこれからであろう。
〈付記〉
この一文を書いたのは三年ほど前なので、ブログに掲載するにあたって、念のためにネット検索をしてみた。
すると驚くことに最近になって、「神保町系オタオタ日記」に「松宮春一郎年譜」がアップされたことを知った。この過去ログなどを読んでみると、私の以前の「折口信夫と『世界聖典全集』」がきっかけとなって、彼は松宮探索を続けていたようで、その成果が「年譜」へとつながっている。
この「年譜」によって、松宮の没年が昭和八年であり、関東大震災で亡くなったのではないかという私の推測は間違っていたことになる。だが当時の認識はそのまま残しておくべきだとも考え、あえて修正を施さなかった。
しかしこの「年譜」から最も教えられたのは、吉川英治が世界文庫刊行会の筆耕に携わっていた事実である。松宮と柳田国男や水野葉舟や集古会の人々との交流は想像がつくにしても、吉川との関係はまったく意外であった。
実は本連載はもうしばらくすると、大正から昭和にかけての新しい大衆文学としての時代小説と作家に移っていく。そのようなムーブメントにやはり『世界聖典全集』も寄り添っていた事実が、吉川の例に表われていることを確認した次第だ。
「神保町系オタオタ日記」の松宮探索に敬意を表す。
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