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古本夜話111久保田栄吉訳『驚異の怪文書ユダヤ議定書』とノーマン・コーン『シオン賢者の議定書』

私はかつて ユーゴスラヴィアの作家ダニロ・キシュの『若き日の哀しみ』『死者の百科事典』(いずれも東京創元社)について、「死者のための図書館」(拙著『図書館逍遥』所収、編書房)という一文を書いたことがあった。この二冊の短編集はナチスによるジェノサイドと強制収容所を背景とし、アウシュヴィッツに送られ、殺されたユダヤ人であったロシュの父をめぐる様々な寓話的作品からなっている。それらの物語の核心に「書物という殺人者」(キシュ)に他ならない『ユダヤ議定書』が横たわっているのだ。同書はナチスによって徹底的に利用され、戦争とジェノサイドを正当化させた書物でもあった。キシュはその伝播に関して、ヨーロッパ大陸、イギリス、アメリカを経て、「日出る国」にさえ届いたと記していた。

若き日の哀しみ 死者の百科事典 図書館逍遥

確かにそうなのだ。宮沢正典の『ユダヤ人論考』(新泉社)によれば、『ユダヤ議定書』(『シオンの議定書』や『シオン長老の議定書』とも表記される)を最初にもちこんだ一人は、内外書房から『猶太禍』を刊行した北上梅石である。彼の本名は樋口艶之助で、神田駿河台の初期のニコライ神学校を卒業してペテルスブルグ神学大学に留学後、陸軍諸学校のロシア語教授に就任した。そしてシベリア出兵に通訳として従軍しているので、彼も小谷部全一郎酒井勝軍と同じ経路をたどっている。

それから最初に『シオンの議定書』をその著書『世界革命之裏面』に掲載したのは包荒子で、彼は陸軍のユダヤ問題専門家の安江仙弘であり、ロシア語を習得し、シベリアに赴任しており、またパレスチナにも派遣され、それに同行したのは酒井であった。

そして昭和十三年になって、エス・ニールス著、久保田栄吉訳『世界顚覆の大陰謀ユダヤ議定書』破邪顕正社)から単行本として、ロシア語原文も収録した上で刊行された。原書は著者のニールスが入手したユダヤの長老たちの秘密会議録で、それをロシア語に翻訳したものとされ、これをテキストとして多くの各国語訳が出たのであり、初めての原典訳単行本と見なしていいだろう。これは戦後の昭和三十四年に大勢新聞社から『驚異の怪文書ユダヤ議定書』のタイトルで復刻され、私の所持する一冊は同四十八年七版とあり、ロングセラーになっているとわかる。後にふれるノーマン・コーンの『シオン賢者の議定書』内田樹訳、ダイナミックセラーズ)も巻末にこれを抜粋収録しているので、破邪顕正社版を決定版と考えるべきだろう。
シオン賢者の議定書
訳者の久保田は宮沢の前掲書にも名前が散見していたが、同書に寄せられた序文にあたる「訳者の言葉」、及び巻末の略歴によれば、明治二十年富山県生まれ、ロシア革命前後にかけて十数年滞露し、大正十年ソビエト陸軍大学の日本語教授に招かれたが、日本共産党員の告訴により、スパイ容疑を受け、死刑宣告される。しかし獄中生活を経て釈放され、日本へ帰り、『赤露二年の獄中生活』などを刊行し、「ロシアの日本に対する大野望を暴露する」とともに、その核心にあるユダヤ人の「世界革命陰謀のバイブル」と称すべき『世界顚覆の大陰謀ユダヤ議定書』の翻訳紹介に至っている。久保田の著書は未見であるし、その経歴は詳らかではないにしても、とりあえずのプロフィルはこれで描けるだろう。

さてこの『世界顚覆の大陰謀ユダヤ議定書』だが、これは久保田の記述に添うよりも、先述のコーンの『シオン賢者の議定書』によって説明分析しておくべきだと判断する。なぜならば、コーンは『千年王国の追求』(江河徹訳、紀伊國屋書店)、『魔女狩りの社会史』(山本通訳、岩波書店)において、異端審問、魔女狩りの粛清と異族迫害の歴史的メカニズムを問い、同書にあってはこれも同じ構造を有するジェノサイドとホロコーストをテーマとすることで、訳者の内田樹も記しているように、「迫害の社会史」三部作を形成しているからだ。なおここからは『議定書』はコーンがよんでいるように、『プロトコル』と表記する。

千年王国の追求 魔女狩りの社会史

コーンは他の追随を許さない偽書プロトコル』について、ユダヤ人の世界支配陰謀神話の極限的な表現形式で、神話普及史上最大の媒体であり、それが第一次世界大戦後に全世界を席巻し、ヒトラーによってナチズムのイデオロギーにまつり上げられ、アウシュヴィッツの建設へと結びついたと指摘している。その『プロトコル』を簡略にトレースすれば、次のようなものになろう。

プロトコル』の前史に潜んでいるのは、キリスト教徒がユダヤ人に抱いていた偏見であり、聖職者たちによって広く深層に根づいていたもので、それは悪霊に取りつかれた破戒者、悪魔的能力を備えた神秘的存在だとの盲信だった。その盲信はフランス革命を迎え、ユダヤ人の世界支配陰謀の神話を発生させる。イエズス会神父がフランス革命秘密結社陰謀説を唱え、それに読者の書簡が加わり、革命の元凶は中世の聖堂騎士団の傘下におかれたフリーメーソンと啓明結社であり、その背後にユダヤ人が暗躍しているという言説、すなわち『プロトコル』に至る反ユダヤ偽書群の始まりが刻印された。
そして十九世紀になって、新たな産業社会の訪れにより、工業や商業、政界やジャーナリズム、ロックフェラーのような金融資本にユダヤ人が破格に台頭し、それに対して保守主義陣営からユダヤ人が悪魔的な近代の化身と見なされ、反ユダヤ主義へと結びついていった。そのかたわらで、コーンの著書の「付録」となっているような反ユダヤ主義的な小説、ドキュメント、講話などがヨーロッパから始まり、世界各国へと伝播していき、ユダヤ人世界征服陰謀の神話は世界を席巻するに及んだ。その神話の嚆矢が『プロトコル』で、ここにかつてのフランス革命の代わりに、第一次世界大戦ロシア革命世界恐慌も、すべてがユダヤ人の陰謀とされ、ユダヤ秘密結社に集ったシオンの賢者たちが世界を支配し、その方法を決めているという奇怪な神話が樹立されたのである。

またそれはナチスによるユダヤ人ジェノサイドへと駆り立てていく力の源泉ともなったのだ。このユダヤ人世界支配陰謀神話とジェノサイドへ至る道をたどりながら、コーンは次のように記している。

 神話は真空の中では作用しない。もし第一次世界大戦ロシア革命がなければ、神話は極右派と西欧の奇想家のままに終わり、『プロトコル』は陽の目を見ることがなかっただろう。また世界恐慌とその後の混乱がなければ、『プロトコル』が西欧の強大な一政府と国際的な政治運動の信仰箇条となることもなかっただろう。

そしてコーンはさらに付け加えている。「ユダヤ人世界支配陰謀神話はまだ絶命していない。また別の偽装の下に蘇ろうとしている」と。これもまた確かにそうなのだ。現在でもユダヤ人陰謀神話本の出版は後を絶たず、他ならぬ「日出る国」でも延命している。それは偽書プロトコル』の影響がまだ終焉していないことを示していよう。

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