出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

41 パナマにおける紀ノ上一族

◆過去の「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の記事
1 東北書房と『黒流』
2 アメリカ密入国と雄飛会
3 メキシコ上陸とローザとの出会い
4 先行する物語としての『黒流』
5 支那人と吸血鬼団
6 白人種の女の典型ロツドマン未亡人
7 カリフォルニアにおける日本人の女
8 阿片中毒となるアメリカ人女性たち
9 黒人との合流
10 ローザとハリウッド
11 メイランの出現
12『黒流』という物語の終わり
13 同時代の文学史
14 新しい大正文学の潮流
15 『黒流』の印刷問題
16 伏字の復元 1
17 伏字の復元 2
18 ストーカー『吸血鬼ドラキュラ』
19 モーパッサン『ベラミ』
20 ゾラ『ナナ』
21 人種戦としての大衆小説
22 東北学院と島貫兵太夫
23 日本力行会とは何か
24 日本力行会員の渡米
25 アメリカと佐藤吉郎
26 ナショナリズム、及び売捌としての日本力行会
27 『黒流』のアメリカ流通
28 浜松の印刷所と長谷川保
29 聖隷福祉事業団と日本力行会
30 日本における日系ブラジル人
31 人種と共生の問題
32 黄禍論とアメリカ排日運動
33 日本人移民の暗部
34 『黒流』のコアと映画『カルロス』
35 石川達三『蒼氓』
36 航海と船の中の日々
37 ブラジル上陸
38 久生十蘭『紀ノ上一族』
39 排日と紀ノ上一族
40 メキシコ人と紀ノ上一族


41 パナマにおける紀ノ上一族

紀ノ上一族(沖積社版)

第一部をかなり詳しく紹介してみたが、久生十蘭独特の文体に彩られていることが「死の谷(デス・ヴァレー)」の描写の引用からだけでもわかるだろう。
第二部の「巴奈馬(パナマ)」はタイトルに示されたように、南北アメリカをつなぐ国が舞台である。語り手の「私」はドイツ人のゲルケ博士で、日本でベルツ博士の助手を務め、河川熱の研究のために紀ノ上村で四年間暮らしていたことがあった。パナマに着き、最初の言葉を洩らす。

 「……これは 地獄だ」
 私は思わずそう呟いた。
 ジャヴァや西印(せいインド)諸島のさまざまな植民地を見て来たが、巴奈馬のクリストバル新開地ほどの惨憺たる風景をまだ一度も眼にしたことがなかった。

熱病的な沼地の臭いの充満、堀割にたまっている膿汁のような黄渇した水、蚊の絶好の繁殖である塵芥捨場に群がる黒い霞のような蝿、黄熱病などの流行、ここは死亡率九十八パーセントという猛烈な風土病の発生地にして危険極まる地域だった。「私」は熱帯病に対するゴーグス軍医の有名な「模範的予防施設」の研究のために赴任してきたのだが、「このぶんではどうやら奇妙なものになる」ような予感がした。
町は酒場や賭博場のたぐいが多く、明らかに沼泥病の初期症状を示す発赤した顔の労働者や、骨と皮ばかりに痩せた厚化粧の女がよろけ廻ったりしていた。そこに酒精(アルコール)中毒の巡査たちに護衛された一台の馬車がやってくると、どの戸口からも人々が出てきて馬車を遠巻きにし、殺気立って言葉を発し、馬車を追って走ってきた白人労働者の子供たちは騒々しくて卑猥な罵声を上げ、われ勝ちに泥をつかんで、馬車の中に投げこみ始めた。その中にいたのは赤錆色の太いチェーンで括られた十五、六歳から十一歳ぐらいまでの五人の黒人の少年だった。

 身装(みなり)はみなひどいものだったが、西印度諸島や、阿弗利加黒人のような卑しい顔は一つもない。五分刈りの短い直髪に蔽われた頭蓋は完全な発達をし、ゆったりと引き結んだ唇、考え深そうな表情の影に深く沈んだ黒い瞳、どれも、目鼻だちの整った、品位があるとでもいうべき立派な顔立ちだった。(中略)
 不思議なのはこの年の若い囚人達のようであった。
 どれもみな行儀よく膝を折って坐り、このような惨憺たる運命にたいして少しも心を動かしていないように見える。なかでも、年嵩の少年の態度は見事であった。

「私」は思わず馬車に近づき、その年嵩の少年にいくつか言葉をかけ、手を差し出した。彼は世にも美しい眼差しで「私」を見つめ、軽く差し出された手を握った。
「私」は少年たちが爆発事件を起こしたというクラシャをパナマ鉄道で訪ねた。キュレブラ切割(カツト)の工事場は爆発で赤土の断層が地獄の谷のような口をあけ、直射する熱帯の光の中で何の人影もなく、死んだように静まりかえっていた。このような大破壊をあの五人の黒人少年たちがやったのだろうか。それに今やパナマ運河の開発はフランスのレセップスからアメリカの手に移っていた。その時「私」は狙撃され、帽子が二メートルほど後の赤土の上に落ちた。

パナマもまたアメリカがありとあらゆる悪辣極まる手段によって中米から略奪したといってよく、小山の中腹にある白ペンキ塗の厩のような木骨家屋が「亜米利加巴奈馬地峡帝国」の中央政庁(ホワイト・ハウス)だった。「私」はここにある衛生局の研究室にヴァイス・リヒターを訪ねた。看護婦のウィンスローが席を外すと、リヒターはようやく本当のことを話し出す。

 私の手紙は没収されたようですね。あなたのところに届いていない。ここは不当な権力で完全に世界から隔離された一種の政治的な孤島です。執行委員長のゴータルス小佐がこの地峡帝国の絶対の独裁者になっている。そしてここの運河工事の不正に同意しないものはひどく迫害される。私たちはあらゆる自由を奪われ、逃げ出すこともできない。逃げ出した連中はことごとく船の中で死んでいる。

 それから運河政府の最大の禁制(タヴウ)は切割(カツト)の現状を知ることです。切割(カツト)はこの半年でわずかしか掘れず、三度も事故が起き、二百人も犠牲者が出た。ゴータルスはアメリカに八千万ドルの追加予算を要求しているが、今度の選挙で多数の共和党員が落選し、民主党が下院の大多数を占め、追加予算は認可されず、下院の予算議員団が実地観察にやってくる。だから運河委員会は予算獲得の前に不成功を知られるのはまずいので、必死に事実を隠蔽しようとしている。

次回へ続く。