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古本夜話125 「パリの日本人たち」と映画

小島威彦と仲小路彰の科学文化アカデミアが戦争文化研究所、世界創造社、スメラ学塾へと展開されていくためには、小島の昭和十一年から十三年に及ぶ、ビルドゥングス過程とでもいうべきヨーロッパ留学が不可欠であった。

小島の旅と留学は『百年目にあけた玉手箱』の第二巻から四巻にわたり、全七冊のうちの二冊半を占めている。したがって小島にとり、この支那海から印度洋を通り、アフリカ周航を経てパリへの到着、それから地中海、ドイツ、北欧、イギリス、東欧、ギリシア、イタリアをめぐる旅と留学は、ヨーロッパの植民地化の実態を目の当たりにしたこともあり、『世界創造の哲学的序曲』における「コスモ・ポリスの建立」を強く実感させるものだったように思われる。それからこれはまったく言及されていないが、当時小島がライバルとして想定していたのは、和辻哲郎とその著作『風土』岩波書店、昭和十年)であり、小島の最初の旅の記述は『風土』を意識しているのではないだろうか。
風土

また和辻たちの留学と異なり、昭和十年代になってからヨーロッパに留学したり、長期滞在していた日本人たちも、太平洋戦争に向かいつつある国際社会の中での日本を外から見つめることによって、思考の転回を迫られていた。昭和六年にパリにいた金子光晴は「第一次大戦と、未発の第二次大戦のあいだの虚妄の時間を僕らは、いわれもなく生きのびていた」(『ねむれ巴里』中公文庫)と卓抜な比喩で語っていた。金子の時代と異なり、そのような時期に小島はパリに着いた。彼を待ち受けていた「パリの日本人たち」を挙げてみる。それらの主要人物は今橋映子『異都憧憬 日本人のパリ』(柏書房)などにも登場していない日本人なのだ。

ねむれ巴里 異都憧憬 日本人のパリ
   川添紫郎/後藤象二郎の孫、元マルキスト。後に原智恵子と結婚。
   原智恵子/有島生馬をパトロンとする天才少女ピアニスト。
   深尾重光/小島の義兄で、同様に川添の従弟。植物学者で、小島に同行。
   井上清一/熊本の米相場師の息子で、元マルキスト。五高退学処分。
   坂倉準三/東大美術史科出身、ル・コルビュジエ建築事務所勤務。パリ万国博日本館設計。後に文化学院西村伊作の娘ユリと結婚。
   鈴木啓介/山吉証券の社長の息子で、辰野隆の親類。
   丸山熊雄/フランス政府公費留学生、仏文学専攻。
   山田吉彦パリ大学民族学会員、後のきだみのる
   諏訪根自子/ベルギー音楽院在学のバイオリニスト。
   城戸又一/毎日新聞パリ支局長。

本連載との関連でいえば、有島生馬は『世界聖典全集』前輯の装丁者である。後に吉川逸治や岡本太郎にもふれるが、彼らは美術分野でよく知られているので、省いた。その他にも様々な日本人が登場しているが、これらの人々が帰国後にスメラ学塾の塾員となったり、その講師として召喚された主たるメンバーである。

また彼らはパリで、日仏映画祭と日仏座談会を試みている。日仏映画祭は熊谷久虎の『情熱の詩人啄木』の上映だった。小島の『百年目にあけた玉手箱』には、日仏座談会は描かれているにもかかわらず、日仏映画祭への準備と慰労会への少しばかりの言及があるだけだ。それは前者がソルボンヌの学長やルイ・アラゴンの出席を得て、盛況だったからで、それに対して後者の場合は小島にとって芳しい印象を残さなかったからではないだろうか。

そのためにこの日仏映画祭に関しては、丸山熊雄の『一九三〇年代のパリと私』鎌倉書房)を参照してみる。丸山の回想によれば、川添紫郎はシベリア鉄道で日本に帰り、『情熱の詩人啄木』を携え、戻ってきた。それまでパリで、日本映画は正式に公開されていなかった。川添は日本映画を売りこみ、フランスで公開するルートを樹立しようとする意志があった。これは川添が早稲田高等学院時代に谷口千吉山本薩夫と仲間だったことも作用しているのだろう。しかし日本大使館の支援はまったく得られず、川添と井上も準備に参加できず、丸山と坂倉、ギリシャ語専攻の坂丈緒がフランス語字幕を作成した。だが小島の証言では山田吉彦が訳し、解説したことになっている。

そしてシャンゼリゼのホールで上映すると、二百人が入る満員の盛況だった。ところが映画の進行と字幕が合わず、丸山とフランス人の友達が無声映画時代の活弁で対応する羽目になった。だがフランス人には好評で、それからも一、二回上映したという。ただそれで終わってしまい、川添の日本映画ビジネスの目論見は実現しなかったという。

この『情熱の詩人啄木』は未見であるが、幸いにして『日本映画作品全集』(キネマ旬報社)に清水晶による紹介があるので、それを引用しておく。昭和十一年の日活多摩川の作品である。

 石川啄木が「かにかくに渋民村は恋しかりおもいでの山おもいでの川」とうたった故郷渋民村で小学校の代用教員を勤め、自由と平等を説く進歩的な教育で子供たちの敬愛を一身に集めながら、保守的な校長や村の顔役に受け入れられず、「はたらけどはたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざりぢつと手を見る」という苦しい生活の中にも、節をまげることなく旧弊な校長や村人たちによって、「石をもて追わるるごとくふるさとを出でし悲しみ消ゆる時なし」の歌のように、渋民村を去って行くまでを描く。当時新鋭監督として野心満々の熊谷久虎の演出下に、島耕二が啄木を熱演、彼をやさしくなぐさめる女教員を黒田記代、啄木の父親で、貧しい一家の口べらしのために家出する和尚の役を小杉勇が演じた。

この監督の熊谷久虎を同じくキネマ旬報社の『日本映画テレビ監督全集』などで確認してみると、驚くべき事実に突き当たる。その写真入りの滋野辰彦の紹介によれば、熊谷は『情熱の詩人啄木』で認められ、続けて石川達三『蒼氓』森鷗外『阿部一族』を撮り、これが代表作とされている。これもまた偶然ながらも、私も「謎の作者佐藤吉郎と『黒流』」の連載で、石川の『蒼氓』を論じたばかりだ。

蒼氓 阿部一族


しかし問題なのはこれに続く記述で、「『上海陸戦隊』(39)、『指導物語』(40)の二本の国策映画を撮ったのち映画を離れ、国粋主義思想団体へ〈すめら塾〉をつくり、一説には教祖に近い存在だった」とある。これは明らかに熊谷がスメラ学塾の幹部であったことを意味している。さらに加えて、彼は原節子の姉の夫で、原が姉と同じ女優になったのは、家族の経済的事情もあったが、彼の勧めによるものだった。そして山中貞雄の傑作『河内山宗俊』で脚光を浴びることになる。その撮影中にドイツの映画監督アーノルド・ファンクが訪れ、原の美貌を見こんだことから、日独合作の『新しき土地』に出演し、昭和十二年にそのドイツ封切の舞台挨拶のために、義兄の熊谷と渡独した。それはおそらく「パリの日本人たち」が『情熱の詩人啄木』を上映した翌年のことであった。

また小島の『百年目にあけた玉手箱』第四巻には、戦争文化研究所と世界創造社を設立すると、毎日のように熊谷が訪ねてきたという記述も見つかる。おそらくパリでの上映がきっかけになったのであろう。その後熊谷がどのようにしてスメラ学塾に加わっていったのだろうか。しかしスメラ学塾はヨーロッパからの帰還者を引き寄せる強力な磁場であったゆえに、熊谷も同様にその渦中へ誘われていったように思える。


   『一九三〇年代のパリと私』

次回へ続く。

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