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古本夜話126 『伊太利亜』、『イタリア』、『戦争文化』

伊太利亜(一九三八年)』という雑誌的な印象を受ける一冊があって、それを十五年ほど前に入手している。菊版ソフトカバーの黒地の表紙に、イタリアの国旗が斜めにレイアウトされ、イタリアのモダニズムを感じさせる。表紙には「XVII E.F.」とあるので、Era Fascista=ファシズム時代十七年を意味しているのだろう。

発行所は日本電報通信社、後の電通で、編輯発行者は光永星郎、その創業者名が記され、東京堂などの五大取次名が掲載されているので、この『伊太利亜』が取次を流通し、書店でも売られていたとわかる。

「序文」をイタリア大使のアウリツチが寄せ、これがイタリア全分野における「国情及国民生活」の紹介と評論で、イタリアに関する最良の「日本国民にとつての実用案内書たらんとするもの」との言がある。

また「緒言」は光永の手になるもので、「伊太利亜にその起原を持つ処のフアシズムは、今や世界的隆盛を見んとしつゝある」と始め、イタリアと日本の歴史や国民の共通性が挙げられ、「今や独逸と共に防共の盟約を結び、人類の敵共産主義を潰滅すべき使命に一致してゐる」と述べている。そしてこの『伊太利亜』は先に刊行したドイツ紹介の『独逸大観』と同様の「友邦に対する友誼に酬ゐんとする」意図により企画されたと記している。

そして二十章にわたり、多くの写真を配して、イタリアのファシズムと戦績、軍隊、農工業などに加えて、日伊の親善事情、日伊学会のことも語られ、巻末にはイタリアと関係の深い日本やドイツの商社の広告が掲載されている。この『伊太利亜』の刊行は昭和十三年十二月であり、前述の『独逸大観』と合わせ、電通が同十五年の日独伊三国同盟に先駆けて仕掛けた出版プロジェクトだとわかる。電通はまたそのような出版社であったことにもなる。

しかし『伊太利亜』刊行の事情は『電通100年史』を入手して調べたが、まったく言及されておらず、イタリア文学者の田之倉稔にも問い合わせたが、彼も初見であり、この本に関しては何も知らないとのことだった。

ところが小島威彦の『百年目にあけた玉手箱』第四巻に雑誌『イタリア』創刊の話が出てくる。川添紫郎は帰国直後にイタリア駐日外交官と親しくなり、『イタリア』という雑誌の発行を依頼される。イタリア文化参事官の要請は、イタリアファシズムの宣伝ではなく、小島と原智恵子の協力も含めたイタリア文化の紹介が目的で、編集も費用もすべて一切がお任せで、すべての請求に関して、イタリア大使館が面倒を見るという願ってもない条件だった。

川添は小島に『イタリア』のコンセプトと内容について言う。

 「私の親友、今藤茂樹を編集長にして、十月末に創刊号を出そう。まず一五〇頁までの大判の美術雑誌のような形で、内容は日伊の経済通信の編集による現在の見通しを、西谷弥兵衛に書いてもらう。文学や芸術は帰国したばかりの丸山熊雄に、フランス、イタリアの哲学は難波浩に、ロマネスク芸術は、もうすぐ帰国してくる吉川逸治に、そして建築は坂倉準三に。彼も近日中に帰国の予定だ。政治経済は同盟通信の編集長の波多尚に担当してもらう。まあ、楽しい、しかし見れば現代の断面を見るだけの新鮮な力が漲ってなくちゃ。」

つまり『イタリア』は「パリの日本人たち」を主たる編集、執筆者として構想されたのである。その他に名前が挙がっている西谷と波多は小島と同じ五高出身で、角度が異なる経済学者であり、二人ともスメラ学塾の中心メンバーとなっている。今藤は川添の早稲田高等学院時代からの友人ではないだろうか。難波浩については次回にふれる。

その他にも国民精神文化研究所の若き所員たちにも協力を仰いでいるが、彼らの名前と寄稿の内容については省略する。この『イタリア』は昭和十三年十月だったと考えられる。これは全般に及んでいることではあるけれども、『百年目にあけた玉手箱』は日付の記述はあっても、年度がはっきり示されておらず、類推するしかない。そのように推測すると、電通による時局的な『伊太利亜』の刊行計画と「パリの日本人たち」の日本への帰還が重なり、『伊太利亜』に関するイタリア大使館の文化参事官の不満もあり、『イタリア』の発行が構想されたのではないかという経緯と事情が浮かび上がってくると思われる。
それゆえに『伊太利亜』と『イタリア』は兄弟雑誌、表裏一体の関係にあったのではないだろうか。しかし残念ながら、『伊太利亜』は入手しても、システィナ礼拝堂の天井のミケランジェロ天地開闢のアダムを表紙とする『イタリア』を読む機会を得ていない。その表紙は「アダムが天空のイヴに手を差し伸べて(ママ)」いて、「力溢れる新世界創造への躍動」を伝え、それはイタリアとの大東亜共栄圏構想のメタファーでもあったのかもしれない。

しかし小島と川添を中心とする『イタリア』の内容は、小島と世界創造社と戦争文化研究所を立ち上げていた仲小路にとって、満足のゆくものではなく、自らが提案した総合雑誌『戦争文化』の発刊を早々と決定づけることになった。昭和十四年の三月発売予定の四月号が創刊で、数十人に対しての原稿依頼がたちまちのうちになされ、創刊号ができた二月二十日に、白木屋で小島は「ギリシアの末路と近世史の末路」なる講演を行なった。満員であり、創刊号も置かれていた。

 入口の両側に『戦争文化』の赤字に白く染め抜いた部厚い総合雑誌が積み上げられ、熱気が漂っている。一部八十銭の定価だ。支那問題研究会、アジア太平洋研究会、国土計画研究会の三本柱を中心に、二十項目に渉る論文、体験記、批判を展開した新鮮な総合雑誌である。

ここに挙げられた三つの研究会は昭和研究会の分会と見なせるだろう。支那問題研究会と国土計画研究会は昭和研究会の中でも主要なものであり、両者のメンバーと研究内容は酒井三郎の『昭和研究会』(中公文庫)の中で言及されている。とりわけ国土計画研究会のテーマは、戦後の高度成長期における開発プロジェクトへと継承されたように思われる。ただ残念なことに、アジア太平洋研究会については記されていない。

このようにスメラ学塾と戦争文化研究所は昭和研究会とも密接に提携していたのである。それらに国民精神文化研究所も加わっているに相違なく、『戦争文化』は仲小路を編集長とし、様々な研究機関の人々からの寄稿を中心に、創刊されていったことになる。だがこちらも『イタリア』と同様に、第九号まで刊行された『戦争文化』も見るに至っていない。

その後のことを記せば、『イタリア』の刊行がきっかけになり、昭和十七年にスメラ学塾メンバーを中心とした、レオナルド・ダヴィンチ展覧会が池ノ端産業館で開催されたのである。

次回へ続く。

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