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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話132 富沢有為男『地中海』『東洋』『侠骨一代』

スメラ学塾は残された第一次資料がほとんどないようなので、小島威彦『百年目にあけた玉手箱』の記述からだけでは、その明確な立体図や二千人に及んだという塾生の実態、そこで行なわれた講義や講演がリアルに浮かび上がってこない。それは西田幾多郎門下の西洋哲学専攻の小島や仲小路彰の屈折した転回と相似し、共通していると思われる。

その不可解さはスメラ学塾以前に、小島と仲小路を中心とするサロンである科学文化アカデミアによった、富沢有為男の軌跡にもうかがうことができる。本連載124「国民精神文化研究所と科学文化アカデミア」で既述しておいたように、後者から「いろんな雛」であるところの小島の『世界創造の哲学的序曲』、唐木順三の『現代日本文学序説』、富沢の『地中海』などが「巣立っていった」とされる。

この富沢の『地中海』は仲小路の『砂漠の光』に触発された小説だと小島は証言している。なおこの『砂漠の光』は、野島芳明の『昭和の天才 仲小路彰』(展転社)所収の「年譜」によれば、大正十一年に新光社から刊行されたマホメットの生涯を描いた長編戯曲で、東京帝大在学中の仲小路の処女作だという。新光社といえば、本連載で既述してきたように、「心霊問題叢書」や『大正新修大蔵経』の企画版元であり、『砂漠の光』もこれらの出版と連鎖しているのだろうか。
昭和の天才 仲小路彰

『地中海』に言及する前に、まず富沢のプロフィルを描いておく。彼は明治三十五年大分市に生まれ、大正八年東京美術学校に入学し、新聞記者を経て、文学と絵の修業に励む。昭和二年フランスに留学し、カンヌ、パリにて絵を学び、同十一年『地中海』を発表し、第四回芥川賞を石川淳の『普賢』とともに受賞する。この『地中海』は芥川賞受賞作であることから、文藝春秋の『芥川賞全集』第一巻に収録されているので、現在でも容易に読むことができる。

普賢 芥川賞全集

『地中海』のストーリーを紹介する。三年前に絵の勉強にきたパリで、星名は外交官の桂夫妻と知り合い、その夫人と恋愛関係になる。二人は桂を偽り、南仏に向かい、主としてカンヌでランデヴーと情事の日々を送る。そこに桂が駐在武官の広尾大佐を連れて現われ、星名に銃による決闘を呼びかける。その後見人として星名の留学仲間で、数学者の児島がカンヌに駆けつける。児島のモデルはやはり同時代にパリに留学していた数学者の岡潔ではないだろうか。地中海に向かう突堤のところで、児島は星名に逃げるようにいうが、星名は拒否する。すると児島は「未だ運命は決せぬ、それではお前の往く所まで往け」とでも言ったように星名には聞こえた。そして二人は海と空の間が朝の新しい色へと転じていく突堤を歩き出した。

この小説の大半を占める星と桂夫人の心理描写と恋愛への変容はあえて言及を省略した。それは『地中海』を成立させている太い縦糸であるにしても、仲小路の『砂漠の光』とは関連がないように思われるからだ。それゆえに地中海を前にして、生死の選択を迫られている者に投げかける言葉を抽出し、この場面が『砂漠の光』からとられたのではないかと考えたからである。しかし『砂漠の光』を読んでいないので、これはあくまで類推でしかない。

ただ富沢の作品は多くを読んでいるわけではないが、何か説明できないような、ぎこちない要素が孕まれている。例えば『東洋』(『中央公論』昭和十四年五月号所収、後ににっぽん書房)は、富沢と牧野吉晴が同十一年に創刊した美術雑誌『東陽』をモデルとし、日本の陸軍士官学校を卒業し、日本語の自由詩を発表していた中国軍人の座談会をめぐる場面から始まっている。それに続いて上海からフランスへと向かう船上での日本人、中国人、欧米人の関係が描かれ、進行に従って、アジア、アフリカの植民地の光景が浮かび上がる。そしてまたこれも『東陽』に掲載された『地中海』の芥川賞をめぐる選考過程が挿入され、続けて日中戦争の始まりが説明され、「ここに至つては、東洋の運命も、来るべきものは総て到着したのである。もはや何者かの力を以つてしてもこれを喰いとめる事は出来ないであらう」と記される。ほとんど小説の態をなしていないといっていい。

しかしこの引用の言葉に続いて、「この時既に全日本の出征兵士の旋風に埋まつてゐた。/時に昭和十二年八月九日であつた」と結ばれ、大東亜戦争への説明不可能な没入が告げられている。まさに『東洋』という小説もそうであるように。

それから二十年ほどして、富沢は講談社の『侠骨一代』(ロマン・ブックス)の著者として姿を現わす。富沢はその「まえがき」で、これが実在の「仁侠の使徒、飛田勝造」の実伝とも小説ともつかぬ物語であると断わっている。そして牧野吉晴が先に同じく飛田のことを『無法者一代』として書き、牧野の追悼会の席上で、飛田と初めて会ったことも記している。私も『侠骨一代』が富沢の作品だと知っていたわけではない。実は先にマキノ雅弘監督、高倉健主演のDVD『侠骨一代』を見ていたので、あらためてあの原作者は富沢だったのかと気づいたのである。映画のストーリー紹介がそのまま小説の要約にもなっているので、まずそれを示しておこう。
侠骨一代

 蛮勇と腕力だけの暴れん坊だった男が軍隊生活を皮切りに、一度は乞食、人夫の輩に身を落としながらも度量と実力を発揮して幾度か悪徳やくざ組織と対決、遂には恩を受けた親方の組織を継いで大事業を成し遂げる勇壮男性編。

ただし映画の主人公名は伊吹龍馬であり、小説とは異なっている。おそらく実在の人物への配慮から、映画は名前を変えたと考えられる。

ここまで富沢有為男の三つの作品をたどってきたことになるが、読者に対して説明できないような切断を感じる。フランス心理小説を彷彿させる『地中海』、大東亜共栄圏への没入観に覆われた小説の態をなしていない『東洋』、任侠小説にして、そのままヤクザ映画の原作へと使用可能な『侠骨一代』は、まったく別人がそれぞれに書いたといっても過言ではない印象を与える。実際にこの三作の著者名を伏せ、読んだとすれば、おそらく同一人物が書いたものだと誰も考えないだろう。それは富沢のみならず、スメラ学塾に寄り添ったメンバーたちの軌跡を象徴しているような気がしてならない。

さらに近代出版史ということであれば、美術文芸誌『東陽』のことも気にかかる。あまりふれてこなかったが、『東洋』はこの『東陽』の創刊から廃刊までを背景としているからだ。そしてそれを主宰していた牧野吉晴は戦後になって、大衆小説、家庭小説、少年小説を書くようになり、講談社のロマン・ブックスの著者となっていく。その関係で富沢の『侠骨一代』もロマン・ブックスへと収録されたのだろう。

それらの事実に関連して、私たちの戦後のヒーローだった、あの『月光仮面』『七色仮面』『アラーの使者』の原作者である川内康範が、富沢に師事していたことも記しておこう。保田与重郎と日本浪曼派の思想が戦後になって、五味康祐の時代小説に継承されたように、富沢やスメラ学塾のエキスは川内が引き継ぎ、物語としての映画や歌謡曲の中に開花させたことになるのかもしれないのだ。

月光仮面 七色仮面 アラーの使者

本連載はこれもまたしばらく後で、大衆小説と貸本小説へと移っていくが、それらの著者たちやロマン・ブックスについても、またふれることになるだろう。

次回へ続く。

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