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古本夜話133 仲小路彰のささやかな肖像

ラフスケッチの繰り返しにすぎなかったけれど、スメラ学塾へと集結していった「パリの日本人たち」を中心に紹介してきた。これがとりあえずのスメラ学塾関連の連載の終わりになるので、ここで言及を遅延させてきた、その中心人物である仲小路彰にふれておかなければならない。

小島威彦は『百年目にあけた玉手箱』において、戦後の仲小路についてほとんど言及していない。それはおそらくスメラ学塾に集った人々も同様であり、仲小路そのものに関するタブー意識がつきまとっていたからだろう。

それは『一九三〇年代のパリと私』を著わした丸山熊雄も同様で、同書に記された仲小路に関する戦後の証言は貴重であるが、それは実名ではなく、イニシャルで記されている。丸山の同書は彼が亡くなった後、残された口述テープをもとに、夫人によって私家版として鎌倉書房から刊行され、それが昭和六十一年に公刊されたものである。夫人は丸山について、「留学時代のこと、戦争中のことは、自分でもあまり語らず、ごく少数の方以外には、長年、謎のように言われておりました」と述べている。この証言から考えると、ここで語られている一九三〇年代の「パリの日本人たち」の物語は、そのメンバーたちの誰もがほとんど語ってこなかったことを意味している。そしてまた丸山の回想の出現があってこそ、小島の『百年目にあけた玉手箱』の上梓も実現したのではないだろうか。

しかも同書において、丸山は「パリの日本人たち」には愛着をこめ、その生活を描いているが、帰国後にスメラ学塾に関係し、『戦争文学論』を著わし、仲小路の大東亜戦争ビジョンへと引き寄せられていった経緯と事情にはまったくふれられていないし、それらへの言及は丸山の晩年にあっても、タブーのままだったと思われる。ようやく同書において、「留学時代のこと」は語られたが、「戦争中のこと」はほぼ「謎」のままになっている。しかし丸山は少しだけ「戦争中のこと」にふれ、「黒幕、N氏のこと」という一項を残している。これは明らかに仲小路のことで、彼が小島の背後にいた人物で、自分は小島たちと別れてしまった後でも、交渉があり、ヴォルテール研究者の自分が不可解で複雑なヴォルテールの性格をそれなりにつかむことができたのはN氏の存在によることが大きいとも述べている。

丸山の語るN氏は左翼陣営にも通じ、その理論家の一人にして大きな出版社の顧問を務め、「いろんな本を出版させているんで、文学界というか文壇というか、その陰にもいるわけですね。文学とか思想ばかりでなく、政界、財界にまで影響力をもってるんです」。そしてN氏は「大変な博識」にして、「外国語も何箇国語出来るか解らない、天才的な人」で、「やくざのような人間」から「有名な政治家とか学者とか」まで、その役割を与えることによって、相手を喜ばせてしまう人物だと絶賛している。また「パリの日本人たち」の一人である鈴木啓介の一周忌におけるエピソードを付け加えている。それは鈴木と最も親しかった山種証券の社長のスピーチに関してだった。

 それを聞いて僕は、はっと思ったんです。それはこのNさんの名前をあげて、いまだに毎年ね、年頭教書みたいなものを秘密に出すんですね。そしてそれを政財界の人は、直接彼に会わないでもそういうものを分けて貰って、今年の世界の動向ってものを占うっていうんです。そして社会党の幹部の一人も、(中略)鈴木君がこういう方の教えを仰いで、証券界では最も進歩的な動きをした人だったというようなことを言ってました。なるほど、こういうところまで影響力が及んでるんだなと思ったことです。

この仲小路に関するエピソードの信憑性を確認することはできないにしても、戦後においても彼のカリスマ的影響力がそれなりに保たれていたことを示しているのではないだろうか。それは戦後の首相となった池田勇人佐藤栄作が五高の同窓であり、とりわけ後者のシンクタンク的役割を果たしたと伝えられていることにもよっているのだろう。

仲小路の簡略な生涯、戦前戦後の著作活動、山中湖畔における戦後の隠棲生活、至り着いたグローバリズム思想のアウトラインは、彼の戦後の弟子といえる野島芳明によって、近年刊行された『昭和の天才 仲小路彰』展転社、平成十八年)に収録され、「仲小路彰の生涯」、及びその「略年譜」として提出されている。
昭和の天才 仲小路彰

しかしそこに丸山の語ったエピソードを裏づける証言は記されていない。ただ丸山の「黒幕」発言にあるように、仲小路のスメラ学塾に象徴される思想はそのまま継承され、丸山が戦後教授を務めていた学習院大学といったトポス、及びアカデミズム人脈へと流れこんでいったのではないだろうか。ここでは具体的な人名の指摘を差し控える。

そう考えると、仲小路の思想やスメラ学塾の成立に大きな影響を与えたと見なせる『世界聖典全集』の刊行者の松宮春一郎が、学習院の出身であったことをも想起してしまう。そして丸山は戦後ヴォルテール『ルイ十四世の世紀』岩波文庫、全四巻)を訳し続け、昭和五十八年にようやく完結に至るのだが、そこに仲小路の「戦争中のこと」が絶えずオーバーラップされていたのではないだろうか。そういえば小島も、仲小路のことを百科全書派の一人のように思われると語っていたではないか。
ルイ十四世の世紀

それらに加えて、仲小路のマホメット伝『砂漠の光』が井筒俊彦に与えた影響、仲小路がある出版社の戦後の企画顧問だったのではという推測、生長の家との関係、現在の著名な経済アナリストたちが彼の弟子筋にあたるのではないかとの観測も成立する。このように考えてみると、仲小路とスメラ学塾によって散種された様々な言説と思想は、戦後になってもその芽は育ち続け、現在にまで及んでいるのかもしれない。なお丸山と仲小路は奇しくも同じ昭和五十九年に亡くなっている。

いずれ仲小路の多くの著作を通読する機会を得て、もう一度そのことを考えてみたい。

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