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出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話136 国柱会、天業民報社、宮沢賢治

本連載106「望月桂、宮崎安右衛門、春秋社」のところで書いたように、一燈園の西田天香の『懺悔の生活』が春秋社のベストセラーとなったにしても、それで春秋社が一燈園の専属出版社化したわけではないし、むしろ現在では一燈園と西田のことは忘れられ、春秋社は様々な仏教書の版元として認識されているだろう。
懺悔の生活

大正時代に台頭しつつあった大本教にしても、傘下の出版社として大日本修斎会はあったが、有朋堂や龍吟社を発行、発売元にしていたりして、特定の出版社との結びつきは前面に出されていなかった。これも拙稿「浅野和三郎と大本教の出版」(『古本探究3』)を参照されたい。
古本探究3
しかし田中智学が大正三年に発足させた国柱会は、国家主義を仏教に取りこみ、日蓮主義運動を出版によって展開しようとする目的もあって、最初から専属の出版社を有していたと思われる。その出版社名を天業民報社という。この天業民報社の本を一冊だけ持っていて、それは大正十二年五月第三版刊行の田中智学の『身延に登りて』で、タイトル通り田中が日蓮の祖山にして祖廟たる身延へ入山し、その紀行に多くの写真を添え、語ったものである。

箱入上製四百ページ余の巻末には「天業民報社教書弘通要旨」が掲載されている。「教書弘通」とは「宗教出版プロパガンダ」と解釈していいだろう。そこには次のような「要旨」が述べられている。

 吾が天業民報社は、正法弘通正義宣伝の為めに、四十余年一日のごとく、心血を濺ぎ、身骨を摧ひて、夥多の犠牲を払ひ、一意専心、護惜建立の至誠を以て一貫し来れる師子王道人田中智学先生及び一門献身の諸士が手に成る所の、興道益世の諸篇を発行し弘通して、常に日蓮主義唱導の本鐸となれる事は、世間既に周知の事たり、就中『類纂高祖遺文録』(四六版一八三〇頁正価金四円)『本化聖典大辞林』(四六倍版三三〇〇頁正価金六拾円)『妙宗式目講義録』(菊版三三〇〇頁正価金貳拾五円)の三大出版の如き、実に十数年の大労作、数万円の巨資を投じて成れるものにして、(中略)敢て江湖に推薦する所也。(後略)

これをあらためて読むと、天業民報社は「四十余年一日のごとく」との言にあるように、田中が明治二十七年に東京に進出し、国柱会の前身である立正安国会を創始した頃から、併走し、ともに歩んできたとわかる。

巻末に日刊新聞『天業民報』と一連の天業民報社発売の書籍広告が十二ページにわたって掲載され、同社が新聞社も兼ねていること、また四十冊以上の田中の著作に加え、「日蓮主義研究叢書」や「国性劇脚本」といったシリーズも出し、確かにそれらの点数からいって、天業民報社の長年の出版社としての蓄積と広く流通販売されていたことがうかがわれる。なお天業民報社の所在地は東京上野鴬谷だが、実際の住所は下谷区桜木町、発行者は山川伝之助とある。

これらの田中智学の著書の熱烈な愛読者として、ただちに宮沢賢治を思い浮かべることができる。『校本宮沢賢治全集』(筑摩書房)第十五巻の「年譜」を確かめてみると、宮沢は大正八年から田中の様々な著作を読み始め、九年には天業民報社の三大出版のうちの『日蓮聖人御書全集』と『本化妙宗式目講義録』全五冊を読破し、しかも後者は五回も繰り返しに及んだとの証言が残されている。同じく筑摩書房の『宮沢賢治』(日本文学アルバム」21)にはその書影も見える。そして彼は国柱会に入り、友人に手紙を出す。「今度私は/国柱会信行(ママ)部に入会致しました。即ち最早私の身命は/日蓮聖人の御物です。従って今や私は/田中智学先生の御命令の中に丈あるのです」。

また本連載77「『性の心理』と田山花袋『蒲団』」で既述したように、宮沢賢治はエリスの『性の心理』の愛読者でもあった。エリスと日蓮を愛読する宮沢、性と宗教こそが大正時代における、大いなるふたつのテーマだったのだ。

翌年の一月に宮沢は二度目の上京をし、ただちに上野の国柱会館に向かうが、応対に出た国柱会理事は家に無断で上京との話を聞き、親戚があれば、そちらに落ち着くように勧めた。かくして賢治の東京生活が始まる。本郷の下宿生活、印刷所での筆耕と校正係、国柱会の講話への参加と連日の奉仕活動、「国性劇脚本」のひとつで、田中作になる聖史劇『佐渡』の日蓮生誕七百年記念事業披露朗読会経に出席、及びその上演の歌舞伎座での観劇、故郷の友人たちへの『天業日報』購読勧誘と国柱会パンフレットの送りつけなどの日々を過ごし、「これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です」という手紙も書き、創作にも励んだと思われる。そして八月には妹トシの病気の知らせを受け、東京で書きためた原稿を大きなトランクにつめ、花巻に戻っていたと推定されている。

このような賢治の軌跡を見ても、国柱会と天業民報社による出版物を通じての日蓮主義プロパガンダが、大正時代において、東北地方のみならず、全国的に展開されていたと想像するに難くないし、それは昭和に入っての井上日召、血盟団、五・一五事件まで一直線につながっていたのではないだろうか。

その後の天業民報社の行方は確認できていないが、田中智学と天業民報社の関係は、規模のちがいはあるにしろ、田中の三男の里見岸雄と錦正社へと引き継がれていったように思える。里見は国体の科学的研究、及び日蓮主義の近代思想化とその実践をめざし、石原莞爾の世界最終論構想に大きな影響を与えたとされている。その里見にも同伴する出版社があったのだ。山口昌男が『「挫折」の昭和史』で、戦後里見がその錦正社から刊行した自伝『闘魂風雪七十年』を引用し、錦正社が昭和十二、三年頃に中藤正三によって創業され、そこから多くの著書を送り出した事実を報告している。それによれば、中藤は長野県松本在の出身で、二松堂を経て独立に至り、「現代出版界に於て、まさに比類なき人物であり、真に国家、皇室を思ふ国士」とされている。中藤と錦正社は『出版人物事典』に立項されているが、中藤と錦正社についてはまたふれることにしよう。

[挫折」の昭和史 出版人物事典

これらを確認するために、田中智学の『田中智学自伝』(真世界社)に目を通してみた。この大部の「自伝的追憶談」を読むと、『天業日報』の前身が、『改造』や『中央公論』の向うをはるものとして、田中が創刊した月刊誌『毒鼓』で、後に『大日本』となったとわかる。しかし天業日報社に関しては国柱会館がその印刷部を兼ねていること以外に言及がない。

おそらく宗教と右翼思想をめぐる出版は、天業民報社や錦正社に明らかなように、これまでの出版史に記されていない多くの事柄が秘められているにちがいない。

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