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古本夜話139 田中守平と太霊道

前々回ふれた井村宏次の『霊術家の饗宴』(心交社)は「プロローグ」として、「霊術家の運命」が冒頭にすえられ、大正九年七月、名古屋から中央線で二時間あまりの大井駅の場面から始まっている。数万の群衆が待ち受ける中、特別仕立ての列車から現われたのは太霊道開祖・田中守平であった。駅から五里先の彼の故郷武並村に建立となった太霊道大本院へと向かうためだった。巨大な石門の向うの丘上に浮かび上がる大本院は六層の高閣、ピラミッド形の神殿で、霊華殿と呼ばれていた。その霊華殿は同書の口絵写真に田中守平ともども掲載され、「一夜の奇蹟」のように出現したファンタジックな建築が実際に存在したことを教えてくれる。
霊術家の饗宴

井村が田中と太霊道を論じた第五章「疾走するカリスマ・守平」によれば、後に日本心霊学会=人文書院を設立する渡辺久吉の師である桑原天然の死後、大正期から霊術家の黄金時代が到来し、その二大カリスマが太霊道の田中守平、大本教の出口王仁三郎だったとされる。しかし太霊道と田中は後者と異なり、明治維新以後の最大の霊術団体となったにもかかわらず、わずか十数年の活動を経て、突然に消滅してしまったという。

田中は前述の岐阜の寒村に生まれ、十六歳の時に上京し、苦学しながら日本大学と東京外国語学校に学び、明治三十六年にナショナリストとして、天皇へ日露戦争を訴える上奏事件を起こす。その結果、彼は不敬罪ならぬ誇大妄想狂との烙印を押され、郷里に送還され、山中の小庵に四ヵ月余り蟄居するしかなかった。しかしこれに伴う絶食と霊能の覚醒は最初の修業生活に結びつき、それはまた彼の「治病能力」を目ざめさせることになった。そうしたプロセスを経て、田中はカリスマ性を身につけ、政治運動の挫折はあるものの、同四十三年に宇宙の太霊を感得し、『太霊道真典』を完成し、霊術を携え、「神人」と称して中国や蒙古に渡った。大正に入っての帰国後に、東京麹町に宇宙霊学療と太霊道本院を開設した。それは治療的霊術を施すことと、霊術家の養成を目的とするものだった。そのプロパガンダは新聞を通じて行なわれた。井村は書いている。

 (前略)東京の住民たちの目は、ある奇怪な広告に釘づけにされた。鯰の鬚文字で「太霊道」と大きく書かれ、奇蹟的霊術や治病術の数々が、一面全体を使って広告されていたのだ。(中略)広告攻勢は間歇的にくりかえされ、潜在的霊術家志望者や慢性病患者、難病罹患者たちは太霊道道場に殺到する。講授会終了者たちは地方に散り、各地に道場を設営して患者の治療を始めた。まさしく太霊道こそが、主元・守平の類いない天与の弁舌力(アジテーション)と宣伝の才に支えられて、維新以後、最も大規模な霊術団体であった。

この太霊道が刊行した本と雑誌を三点所持している。それらは田中の『太霊道の本義』なる単行本に加えて、もう一点は『太霊道及霊子術講授録』全三冊、『霊子潜動作用特別講授録』全を菊判箱入り合本としたもの、その前者の端本の一冊である。いずれも「鯰の鬚文字」でタイトルが記され、おそらく井村が参考資料としたのもこれであろうと推測される。私はこれらの三点を意識的に集めてきたわけではなく、たまたま古書目録で見つけたり、均一台で拾ってきたりしたものだから、それほどめずらしい文献ではないだろう。この大正時代の出版の奥付を見ると、合本の四冊などは刊行から二、三年で八版から十版を重ねていることも明らかだし、それはまた太霊道がこの時代に新聞や出版プロパガンダを通じて、「大規模な霊術団体」へと成長していたことを示していよう。

『太霊道の本義』において、今日の文明は「人類の物質化」と「人間の機械化」であり、これを脱却し、「霊的新文明を肇建せん」と公宣している。その独自の見地に立つ思想が太霊道で、霊的能力を発揮する霊子術によって、それは実現するとされる。具体的な霊子術については「厳禁他人披閲」とある『霊子潜動作用特別講授録』がほぼ一ページ写真二十九枚を掲載し、それなりに興味深い。だがそれらにコメントする知識もないので、井村の説明を借りれば、太霊道霊術とは霊子顕動作用、霊子潜動作用の発現コントロール技術、つまり「暗示の巧妙な応用、手指趾や手足の震せん術のトレーニング、ESP(主としてテレパシー)の訓練などによって、急速かつ多彩な霊道をひきおこし」、主として治病術へとつながっていき、「田中守平は霊子術をひっさげて日本国内を席捲した」。

しかし田中と太霊道のブームは長くは続かなかった。大本院が不測の事故によって全焼し、田中も昭和三年に循環器障害の発作で倒れ、死を迎える。享年四十六歳であった。

まさに「霊術家の饗宴」を象徴する田中と太霊道の出現に関しての歴史的検証やその位相については井村の記述に譲り、ここでは出版プロパガンダに言及しておきたい。田中の本と太霊道の講授録は東京市麹町の太霊道本院出版局から刊行されている。講授録は非売品扱いで、取次名も記されていないので、直販物として流通したと思われる。奥付にある編輯兼発行人の伊藤延次とはどのような人物であろうか。

拙稿「浅野和三郎と大本教の出版」(『古本探究3』所収)において、大本教の出版をめぐるプロパガンダとパフォーマンスが、マス雑誌や円本の宣伝イベント戦略と酷似していると指摘しておいた。実際に講談社の野間清治や平凡社の下中弥三郎は大本教の出版活動に注目していたし、下中は昭和八年の『出口王仁三郎全集』(万有社)の企画に携わっていたと伝えられている。おそらく大本教のみならず、太霊道も大正期の出版人脈との深いかかわりがあり、同様の出版プロパガンダ戦略を採用したことによって、大本教と並ぶ宗教的団体へと登りつめたのではないだろうか。大正時代においては、出版と宗教の関係は想像以上に深いし、その錯綜する人脈はまだ少ししか判明していない。
古本探究3


〈付記〉
本稿をアップするにあたって、ネットを確認してみると、「ma-tango」の「田中守平の亜細亜」というブログ連載が見つかった。これは注目すべき田中論で、田中に興味を抱かれた読者は必読の論考である。このような論考がすでに書かれていたのかという驚きを覚えた。

この「ma-tango」は、本連載113「藤沢親雄、横山茂雄『聖別された肉体』、チャーチワード『南洋諸島の古代文化』」でふれた吉永進一である。吉永にはやはり注目すべき「平井金三、その生涯」も含め、いくつもの優れた論考がある。ぜひとも一冊の早々の上梓を期待したい。おそらく編集者はついているだろうが、このことを水声社の鈴木宏に伝えてみたい。

八六年に近代ピラミッド協会編『オカルト・ムーヴメント』(創林社)が出されている。この企画編集者だった和田成太郎から、これに続くいくつかの単行本や翻訳の話を聞いたことがあった。しかし同書の刊行とほぼ時を同じくして、創林社は事件に巻きこまれ、会社自体が消滅し、それらの企画も実現しなかったことになる。この『オカルト・ムーヴメント』に「神智学の誕生」を寄せている岩本道人は吉永だと思われる。

田中守平のことを最初に目にしたのは、あの『座談会 大正文学史』(岩波書店、後に現代文庫)の「大正期の思想と文学」における柳田泉の発言の中にだった。それから三十年後に「田中守平の亜細亜」を読み、とても感慨深かった。

聖別された肉体 座談会 明治・大正文学史6 岩波現代文庫


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