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古本夜話140 松田甚次郎『土に叫ぶ』と羽田書店

本連載136「国柱会、天業民報社、宮沢賢治」に続き、もう一編 宮沢賢治にまつわる出版譚を記しておく。
昭和十三年に出版された松田甚次郎の『土に叫ぶ』は、宮沢賢治の後輩として盛岡高等農林学校に学び、山形県最上郡の自らの村へと帰ってきたひとりの青年の生活を通じて、戦前の農村改革、生活改善運動を詳細に描き、タイトルの角書に示された「愛郷愛土」の位相を、三十数枚の写真とともに生々しく浮かび上がらせている。

松田は『土に叫ぶ』の冒頭に「恩師宮沢賢治先生」なる一章を置き、昭和二年に帰郷するにあたって、「御礼と御暇乞ひ」のために花巻郊外に開設された羅須地人協会を訪ねたエピソードを書きとめている。その時宮沢は農村に戻っていく松田に向かって、「一、小作人たれ/二、農村劇をやれ」とのふたつの言葉を贈った。

日本の現在の農村の骨子は小農、小作人にあり、それを実践しなければ、真の農民としての自覚は得られない。農村芝居は単に農村に娯楽を与えることではなく、農業者は自らの農耕や生活行事に芸術を実現しつつあるので、村を舞台とし、その生活を脚本とし、それらを芝居へと昇華させ、ひとつの生命を与え、それをもって村の事業、経済文化を向上させていかなければならない。これらが宮沢の与えた教訓だった。「この訓へこそは私には終生の信條として、一日も忘れぬ事の出来ぬ言葉である」と松田は述べ、宮沢の「雨ニモマケズ」の詩を掲げ、この詩を残し、昭和八年に逝った宮沢を深く追悼することから、『土に叫ぶ』を始めている。

それゆえに松田の帰郷は、宮沢の羅須地人協会の山形県におけるもうひとつの実践にして、『土に叫ぶ』はその記録であったといえよう。その最も忠実な実践は昭和七年に創立された最上共働村塾の設立である。この塾は青年による自治と共働により、農村危機の中における人格、勤労教育と共同生活訓練、十一ヵ月間に及ぶ農業実習と学習を通じ、農村更生の若き先駆者の育成を目的とするものだった。松田の証言から推察すると、これは農村的ナショナリズムの体現である「愛郷愛土」を背景とする全国的な青年団や村塾運動とパラレルで、柳田民俗学や郷土研究の台頭とも重なっていたように思われる。

その代表的な最上共働村塾に言及していくときりがないので、ここではひとつのことだけを記しておきたい。それはこの塾の修了証書に関してであり、その証書はミレーの「晩鐘」なのだ。そしてその裏面には山形県出身の高山樗牛の「晩鐘」について書かれた一文が掲げられている。その「晩鐘」と題する樗牛文は『土に叫ぶ』に示されたミレーの絵の下に全文が引用されているが、これは『樗牛全集』(博文館)にも収録が見えない。だからその最初と最後の部分を引いておこう。

晩鐘

 一日の業を了りたる若き農夫とその妻と、今方(まさ)に家路に就かむとする時、エンヂェラスの祈祷を告ぐる夕べの鐘はひびきわたりぬ。二人は頭(かうべ)を垂れて、無言のいのりを捧げぬ。
 地には平和あり、天には光あり、人には愛情あり。而して天国の響きに応(こた)ふることの祈だにあらば、吾等この世に於て何の求むる所ぞや。あゝ若き農夫と其妻とが、今方に無言の祈を捧げつゝあるを見ずや。

 ミレーのこの図は、まことに人生永遠なる祝福を表示して余情極まりなし。愛あり、信ある者の手に執られたる鍬は、空閑(くうかん)にして虚栄を擁する王者の剣といづれぞや。是れこの図の与ふる最も大なる教訓にして、最も美はしき詩趣なり。その人界一切の色相塗殺(しきさうとさつ)せる暮靄一抹(ぼあいいちまつ)の場景を選び、遙かに寺塔の髣髴(はうふつ)を描きて晩鐘のひゞきを点出せるが如き、殊に画趣の秀でたるを見る。

ここに明治から昭和にかけて、日本人が見た「晩鐘」に対する典型的パターンがあると考えられる。またそれはナショナリスト樗牛に代表される「余情極まりなし」の美文によって、神話的風景と化していった。このようにしてミレーの描く近代フランス農村光景を通じ、日本の農村もあらたに発見されたのである。また付け加えれば、樗牛も晩年には宮沢と同様に、田中智学と日蓮宗に接近していた。

少しばかり話がそれてしまったが、この『土に叫ぶ』を刊行したのは羽田書店であり、この版元は続けて松田甚次郎編『宮沢賢治名作選』及び『風の又三郎』と『グスコー・ブドリの伝記』を出版し、宮沢とその作品を広く知らしめた。『風の又三郎』『グスコー・ブドリの伝記』はほるぷ出版によって昭和四十年代に復刻されていて、それらが内容に見合ったすばらしい装丁と造本だとわかる。おそらく宮沢はこれらの羽田書店の児童書によって、新たな光が当てられたのではないだろうか。

風の又三郎 新潮文庫

この羽田書店について、こちらも昭和五十三年に復刊された『土に叫ぶ』に、羽田武嗣郎の「岩波茂雄先生の思い出と羽田書店創業」の収録があり、この版元が奥付に示されているように、どうして岩波書店を発売所としていたのかが明らかになる。羽田は兄を通じて岩波茂雄と知り合い、朝日新聞記者を辞し、郷里の長野から衆議院議員に立候補し、三十四歳にて当選を果たす。そして岩波を見ならい、出版報国を志し、政治家と出版業を両立させようと決意する。それを岩波に相談したところ、岩波は顧問となって羽田書店と命名し、誰にも許したことのない岩波書店を発売元とする特権を与えた。そして昭和十三年に羽田書店は『土に叫ぶ』を処女出版し、戦後の昭和二十六年の閉鎖に至るまで続けられていった。

昭和五十三年に復刻された『土に叫ぶ』は戦前本と比較し、箱はなく、判型はひと回り小さい四六判であり、羽田武嗣郎の回想に加え、農林政務次官も務めた長男の羽田孜の大きな口絵写真と「再刊にあたって」の一文が収録され、これが孜の選挙用に使われたのではないかと推測できる。もちろん彼は後の総理大臣を経験することになる羽田孜に他ならない。

この羽田書店に昭和十五年に長野から上京して入社し、十八年まで勤めた青年がいた。先述の『グスコー・ブドリの伝記』は昭和十六年四月刊行だから、この本の編集や製作に関わっていたかもしれない。彼は学徒出陣し、敗戦後に出版社を設立に至る。彼の名前は小尾俊人で、その出版社はみすず書房である。ここにも長野出版人脈の系譜が息づいている。

またさらに付け加えれば、戦後の人文書販売において大いなる貢献を果たし、『出版販売の実際』『出版販売を読む』(いずれも日本エディタースクール出版部)を残した相田良雄も、羽田書店の出身である。そしてみすず書房は二人を両輪として営まれていった。しかし一昨年の相田に続き、先頃小尾も鬼籍に入ってしまった。

なお『土に叫ぶ』の戦前本と復刻本の二冊は浜松の時代舎から恵贈されたものであることを付記しておく。


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