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古本夜話143 岡田虎二郎、岸本能武太『岡田式静坐三年』、相馬黒光

『食道楽』村井弦斎肥田式強健術と同様に興味を示したのは、これも当時ブームになっていた岡田式静坐法であった。すでに述べておいたが、明治末から大正時代にかけて、このふたつだけでなく、多くの健康法が流行し、現在に至るまでの民間療法の起源はことごとくこの時代に求められる。これらの他にも、例えば岩佐珍儀の岩佐式強健法、江間俊一の江間式心身鍛錬法、坂本謹吾の坂本屈伸道、中井房五郎の自彊術、柴田通和の足心道、西勝造西式健康法などが挙げられ、戦後の野口体操はこれらの集大成のようなものとしてあるのではないだろうか。これらの健康法の簡略なチャートとして田中聡の「近代健康法創始者列伝」(『健康法と癒しの社会史』所収、青弓社)がある。

食道楽 上 食道楽 下 健康法と癒しの社会史

このような健康法の存在を最初に知ったのは、少年時代に読んだ高木彬光『わが一高時代の犯罪』(角川文庫)においてであり、その冒頭の記述が西式健康法の描写と説明によって始まっていたからだった。
わが一高時代の犯罪

岡田虎二郎の静坐法に関する本も、前回取り上げた肥田春充の本と同じく本人が書いたものではないが、やはり一冊持っている。それは大日本図書刊行の岸本能武太の『岡田式静坐三年』で、大正四年十一月初版、五年四月十六版である。半年でこれだけ版を重ねていることから、当時の岡田式静坐法の人気がうかがわれるだろう。大正元年に実業之日本社から同社編『岡田式静坐法』(昭和五十七年復刻)も出されているが、これは未見である。

著者の岸本はハーバード大学神学部で宗教哲学を学び、『六合雑誌』の主宰にして、早稲田大学の教授で、比較宗教学や社会学を講じていた。明治四十四年に同僚の浮田和民に誘われ、静坐会に参加し、その三年間の経験や感想をまとめたものがこの本ということになる。口絵写真に岡田と岸本が並んで写り、また岸本の静坐による体形の変化がその裸体写真に示されている。前記のような経歴と社会的地位にある岸本にもかかわらず、その「緒言」において、岡田は「博学強記の人」としてカリスマのように扱われ、「予は飽く迄岡田先生の弟子であり、岡田先生は何処迄も予の先生であり恩人である」と尊ばれている。そして静坐法について、次のように書いている。

 静坐法は実に病人に取つては、病気の退治法であり、虚弱者に取つては、元気の充実法であると同時に、凡べての人々に取つては、健康の充実法であり、精神の修養法である。(中略)進んで肉体の活動を統一せしめ、又心霊の活動をも統一せしめ、更らには進んでは肉体と心霊との凡べての活動を調和せしめんとするものである。

この岸本の言葉に象徴されるように、岡田に対する人気は沸騰し、大正時代に入ると、東京で百数十の静坐会が開かれ、会員は二万人に及び、村井弦斎に加えて、木下尚江、高田早苗田中正造相馬黒光などの錚々たる人々もメンバーとなっている。相馬の夫の愛蔵は『一商人として』岩波書店)の中で、岡田のことを「その時代に於ける確かに驚嘆すべき存在」であり、田中正造が二十歳も年少の岡田を「今度こそは我国にも聖人が生まれました」と評したエピソード、及び新宿中村屋の「良い品を廉く」のモットーは岡田の言によることを記している。
一商人として

また妻の黒光も明治、大正文学の貴重な回想録『黙移』法政大学出版局、のち平凡社)において、「静坐十年」という一章を設けて岡田の写真を掲げ、木下尚江から「岡田虎二郎という不思議な人」を紹介され、岡田に接して病から回復し、明治四十四年から大正九年まで一日も欠かさず、日暮里の道場に通ったとも書き、道場の顔触れにも言及している。
黙移 黙移

 この道場にはおよそ社会の各層各階級の人が集まっていました。徳川慶久公、水戸様、二荒伯、相馬の殿様をはじめとして、有爵の方々、実業界の錚々たる人々、学者、芸術家、教育家、基督教徒、僧侶、芸人、相撲取、学生等々いちいち挙げるには限りもないほどでした。

それでは実際に岡田に接した印象はどのようなものであったのだろうか。最初の出会いは「まるでエジプトの彫刻にでも相対しているような無気味な底力を感ずるばかり」だったが、「不思議なことに、何となく気分がさわやかになり」、長い苦しみを忘れさり、心が晴れてきたという。発狂した実業家夫人を視つめ続けることで治癒させた話、いつも木下たちがその後を追い、それがキリストに従う弟子たちの光景を彷彿させたが、「岡田先生は福徳円満の御相で、奈良新薬師寺の本尊のよう」だったことなどが語られている。確かに『岡田式静坐三年』収録の「最近の岡田先生」の写真は黒光の言を諾っていて、肥田春充は軍部とつながるナショナリストの面影があったが、岡田虎二郎は東洋の大人の風格を漂わせている。

だが岡田は大正九年に四十九歳で急逝してしまう。死因は過労と腎臓病からの尿毒症だった。弟子たちは絶望と狼狽に追いやられ、黒光も日暮里参りを止め、道場は閉鎖の道をたどった。岡田は「不立文字の先生」で、何も残さず、弟子たちも二代目を立てることもなかった。そしてその死によって、「今もって先生の本体を理解することができません」という神秘の彼方へと消えてしまったのだ。だから岡田の著作はなく、『岡田式静坐三年』は貴重な記録なのだ。黒光は岡田の出身が三河国豊橋だと述べている。〇五年に岡田の出身地の田原市「岡田虎二郎―静坐法とその思想」展が開かれ、「年譜」も公開された。それによれば、高等小学校卒業後、農業実践にいそしみ、明治三十四年に渡米し、同三十八年に帰国し、静坐法を会得し、その指導を始めている。しかし岡田の生涯は謎めいていて、渡米生活がどのようなものであったのかは明らかになっていない。
またかつてリブロポートの「民間日本学者」シリーズで、津村喬による『岡田虎二郎』が予告されていたが、刊行の目を見ることなく、リブロポート自体が解散してしまった。とても残念に思える。

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