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ブルーコミックス論15 やまじえびね×姫野カオルコ『青痣』(扶桑社、二〇〇九年)

青痣(しみ)


同じ作者について、二度論じるつもりはなかったのだけれども、またしてもやまじえびね『青痣(しみ)』を入手したこと、それにこのやはり「青」を含んだタイトルの作品が姫野カオルコの同名原作(『桃、もうひとつのツ、イ、ラ、ク』所収、角川文庫)を得ていることもあり、やまじの異なる物語世界を表出させているので、続けて書いておきたい。ただ姫野の原作には言及しない。
桃、もうひとつのツ、イ、ラ、ク

その他のやまじの作品の装幀と同様に、『青痣』ミルキィ・イソベによるものだが、それこそ姫野の原作の介入もあってなのか、表紙の明るい灰青の秘色は静謐な中に刺々しさを感じさせ、そこに描かれた二人の制服の少女の関係性を象徴的に浮かび上がらせているようだ。一人は座って本を読んでいて、それをもう一人が後ろから立って見ている。

『青痣』の物語もそのようにして始まっていく。中学校の家庭科の授業で、「わたし」は「J」を知る。だがどうして「J」と命名されたのかの説明はない。「J」の名字は「村松」のはすだ。「J」は机の下で、ヘンリー・ミラー『北回帰線』を読んでいて、「わたし」はすでに読んでいたので、「今ごろ読んでいるなんて遅れている」と思う。新潮文庫ヘンリー・ミラージャン・ジュネが収録されていた時代もあったのだ。「J」はまた岩波文庫赤帯のフランス文学も読んでいる。その時から、「わたし」にとって、何かにつけて「J」のことが思い浮かんだり、目にとまってしまうようになる。どうしてなのか、自問する。
北回帰線

「やだ、なんであの人の顔が浮かぶの?あの人だって美人じゃないじゃん。かわいくもないし、本ばかり読んで、ぜんっぜん地味じゃん!」

それでも「わたし」にとって、「J」は注視すべき存在であることを止めない。家庭科の授業における理想的な台所の図の提出、体育の走り高跳びの軽やかなクリアー、その一方で協調性のなさ、成績の悪さを隠さない大胆さ、コミュニケーションの成立を拒否するような受け答えによって、「J」は「わたし」を含めたクラスの集団、及び集団的思考に対立する存在と見なされるに至る。そして「わたし」は「J」のことを、次のように表象する。

「頭がいいわけでもないくせに!
 男子に人気があるわけでもないくせに!
 本ばかり読んでいる地味な女のくせに!
 いやな女 J はいやな女!
 きっとみんなもわかってくれると思う。」

夏休みから翌年の春にかけて、「わたし」=景子をめぐる様々な出来事が語られていく。町内会での海水浴、小学校以来のグループと英語塾の「S」という大学生の教師、その「S」との秘めやかな空想上の物語など。そして「S」とのドライブで、「J」が塾にきていたこと、彼女が「大人っぽい子」と見なされていたことを知る。たちまち「わたし」と「J」と「S」の三角関係が想像される。それに伴い、「S」の言葉と箸の持ち方に幻滅していく景子、従兄弟たちから聞かされる「J」が処女ではないという噂、新しい担任と「J」の肉体関係の流言、「わたし」は「J」が「不幸になれ」と繰り返し念じた。それは学校という集団の意志でもあり、「J」に対する悪口雑言がこれでもかと飛ばされ、それを背後で画策したのは他ならぬ「わたし」だった。

それでも「J」は動じなかった。「わたし」と「J」は三年生を迎え、同じクラスになり、卒業式に近いある日の午後、図書館にいる「J」を見て、「わたし」はようやく気づいた。「いつもとてもしずかだったから、みんなに排斥されたのだ」と。そして「窓にむかって何かをつぶやいたように見えたJ の横顔は、どうしようもなくさびしくて美しかった。」

これらの物語は第1章から第5章にかけての「わたし」の中学時代の一年から三年を背景にして描かれていた。しかし最終章において、「あれから二十年―わたしはもう中学生ではない」が、「まだここにあの頃のわたしがいる」。「わたし」は「クラスメイトの不幸を願った醜い過去」を思い出し、それは自分にとって、「消すことのできない青痣」だと考える。「J」と担任教師はおそらく恋に「墜ちてしまった」のであり、それゆえに知る孤独を「J」は体現していた。それをわかり、うらやんだから、「不幸になれ J!」と願ったのだ。だが「とくべつな人間」は「J」だけでなく、あの頃は「誰もがみなとくべつだった」のである。少女たちは全員が夢見る存在であったことを、「誰もがみなとくべつだった」といっているように思える。

最終章における中学時代の回想と、「青痣」の記憶は暗闇のドライブの中でリアルに蘇える。しかし信号を待つうちに、現在の日常へと再び回帰していく。そしてクロージングのモノローグが添えられ、幻の「J」=「青痣」を同乗させながら、物語は終わる。

さあ帰ろう
見なれた
景色の中へ
あたりまえの
日常へ
あの頃の
青痣をかかえて
今の
わたしへ

『青痣』に見られる中学生の社会における異分子の出現、その異分子に様々なレッテルを貼ることで差別と疎外に追いやっていくメカニズムに注目することもできる。だがここではそのような酷薄な心的現象を孕んでしまう少女の精神の襞の描き方に目を向けるべきであろうし、やまじや姫野の物語のコアはまさにそこにこめられているからだ。ただこれも「J」の命名と同じく、どのような理由があって、この「青痣」というタイトルが選ばれたのかの理由は示されていない。でもこれが「醜い過去」と言及されているように、「若き日の誤ち」を意味していることは間違いない。そしてそれが「わたし」だけでなく、すべての女性が心の襞の内奥に秘めている「青痣」、しかもそれは十代から三十代になるまで変わることのない精神のメカニズムのようなものであることを、最後のモノローグが語っているように思われる。だが幻の「J」を同乗させながらも、「J」の行方については語られていない。もちろん「J」にこめられたメタファーとその意味について深読みすることは可能だが、ここでは差し控える。

二十年後の「わたし」が登場する「最終章」において、またしても「S」と同様の箸使いの男が描かれ、車のラジオで「S」が弾いた歌を聴き、「S」とともに訪れた「みずうみ」を見る。それは今の「わたし」が中学生の頃と変わらない心の襞を保っていることを告げている。それゆえにモノローグが添えられ、クロージングとなっているのだ。そうした少女の物語の意味において、この『青痣』本連載10でふれた魚喃キリコの『blue』と合わせ鏡的な対照を示しているように思われる。

blue


次回へ続く。

◆過去の「ブルーコミックス論」の記事
「ブルーコミックス論」14 やまじえびね『インディゴ・ブルー』(祥伝社、二〇〇二年)
「ブルーコミックス論」13 よしもとよしとも『青い車』(イースト・プレス、一九九六年)
「ブルーコミックス論」12 松本大洋『青い春』(小学館、一九九三年、九九年)
「ブルーコミックス論」11 鳩山郁子『青い菊』(青林工藝社、一九九八年)
「ブルーコミックス論」10 魚喃キリコ『blue』(マガジンハウス、一九九七年)
「ブルーコミックス論」9 山本直樹『BLUE』(弓立社、一九九二年)
「ブルーコミックス論」8 山岸涼子『青青の時代』(潮出版社、一九九九年)
「ブルーコミックス論」7 白山宣之、山本おさむ『麦青』(双葉社、一九八六年))
「ブルーコミックス論」6 狩撫麻礼作、谷口ジロー画『青の戦士』(双葉社、一九八二年)
「ブルーコミックス論」5 安西水丸『青の時代』(青林堂、一九八〇年)
「ブルーコミックス論」4 佐藤まさあき『蒼き狼の咆哮』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」3 川本コオ『ブルーセックス』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」2 序 2
「ブルーコミックス論」1 序 1