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ブルーコミックス論16 松本充代『青のマーブル』(青林堂、一九八八年)


松本充代を印象づけられたのは、『青のマーブル』の前年に同じく青林堂から出された『記憶のたまご』で、そこに収録されていた短編「ユメ」の二作によってであった。
『記憶のたまご』

「ユメ(一)」は血にまみれたパジャマ姿の女性が描かれ、そこに「朝起きると横に男が死んでいた」と書かれ、始まっている。女が同じく血に染まったパジャマの男の心臓を確認すると、本当に死んでいた。それを前にして、彼女と男との関係と彼の嫉妬深い所有欲、その死因に対する自問、そして「私は夢の中で、よく殺人犯になる。物心ついた頃から何度も人を殺してた。どうしてだろう―わからない」という独白に至る。

「ユメ(二)」は小学校の将来何になりたいかという作文の時間に、「わたしは、きちがいになりたい」と書いた女性の、社会や他者との関係妄想がやはりモノローグ的に描かれている。それが生きるための自己肯定の手段と理想であり、「テレビやマンガや小説の中で美しく狂う彼女達にただ憧れていた」と告白している。

この「ユメ」の二作に松本充代のコアが表出しているように思われた。社会と他者によって造型されてしまう自分のイメージの記憶に抗って、自らを「殺人犯」や「きちがい」に想定することで、すべての自己肯定を試みる。それが松本の世界の基本的色彩のように見受けられた。

十四の短編を収録した『青のマーブル』もそのような世界の延長線上にあると考えていいだろう。そしてまた本連載3 の川本コオによる男の眼差しから造型した「ブルーセックス」が、その女性当事者の側からまったく異なるイメージによって、生理的な生々しさを伴い、提出されたことになる。それは『ブルーセックス』と『青のマーブル』の表紙に描かれた稚い少女の裸体を比較しただけで明らかだ。

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松本の『青のマーブル』は同名の短編を含んでいないが、ただ「マーブル」とだけ題された一作は収録されている。それは自閉的な生活を送っているOL の女性が、夜半に前のアパートから聞こえてきた男女の生々しい営みの声を聞き、「私の女はどこへいくつもりなんだろう」と思う。あのような女の声を出したくないし、恋愛もしたくないし、男ともつきあいたくないし、「私の中の女の成長など容易に止めてやる」と考える。「子供でいたいのではない。早くおばあさんになってしまいたいのだ」。しかし会社の同僚の男に誘われれば、喜んで飲みにいく約束をする場面で、「マーブル」は終わっている。

この「マーブル」だけでなく、『青のマーブル』には「木村雪」や「うめられぬ思い」に象徴的な少女の女としての成長拒否、及び『記憶のたまご』と同様の学校、社会、家庭における対人関係の違和感と不安が描かれている。これらを読むと、現在の言葉でいえば、松本は「肉食系」の自立し、成熟した女と対極に位置する「草食系」の少女の側にいて、そのような視点と立場から、学校、社会、家庭をリアルに描いてきたといえるだろう。それは大いなる読書によって支えられているのだが、それらは「マーブル」の独白である「私もいつかあの女のように悲しい声をあげるのだろう。女性であることが辛い」という認識へと至らせる。

だけど唯一
すくいの巨大な
私の本の山は
読めば読むほど
あたりまえのように
私を絶望の淵においたてる

そのような「私の本の山」に対して、絶えず私の肉体が反発している。それが表紙に描かれたマーブル=純白な肉体と重なり合ってくる。白い花びらと緑の葉に囲まれ、青いオーラに包まれている純白な肉体こそは、総タイトルの「青いマーブル」を意味しているのではないだろうか。純白の肉体は何も身につけてはいないが、金髪がかった長い髪が稚い乳房を覆い、花びらの奥から浮かび上がってきた、まだ学校も社会も家庭も知らぬ天使のようでもある。だから「青」は保護色のような機能を果たす色彩として、ここでは採用されているのかもしれない。

最初、私は松本の『青のマーブル』をビー玉だと思いこんでいた。それは岡田史子の作品集に『ガラス玉』(朝日ソノラマ)があり、その影響を受けた作品で、こちらは「ガラス玉」ならぬ「ビー玉」のようなメタファーとして、作品が成立しているのではないかと勝手に考えていたのである。

岡田史子の『ガラス玉』『ダンス/パーティ』『ほんのすこしの水』が続けて朝日ソノラマから刊行されたのは一九七〇年代後半であり、なぜなのか、松本の世界も岡田史子の影響を感じてしまうのである。
ほんのすこしの水

このことに関連して書いておくが、近年朝日ソノラマは解散してしまい、朝日新聞社に吸収された。朝日新聞の子会社として、朝日ソノラマが「サン・コミック」を創刊し、長年にわたってコミックを出版してきた背景にはどのような経緯と事情があったのだろうか。そういえば石森章太郎の『青い月の夜』という作品もあった。今になって考えれば、その選書は古典、貸本から岡田史子までをラインナップしたオーソドックスにして画期的なもので、誰が企画編集者だったのか興味をそそられる。読者のご教示を乞う。


次回へ続く。

◆過去の「ブルーコミックス論」の記事
「ブルーコミックス論」15 やまじえびね×姫野カオルコ『青痣』(扶桑社、二〇〇九年)
「ブルーコミックス論」14 やまじえびね『インディゴ・ブルー』(祥伝社、二〇〇二年)
「ブルーコミックス論」13 よしもとよしとも『青い車』(イースト・プレス、一九九六年)
「ブルーコミックス論」12 松本大洋『青い春』(小学館、一九九三年、九九年)
「ブルーコミックス論」11 鳩山郁子『青い菊』(青林工藝社、一九九八年)
「ブルーコミックス論」10 魚喃キリコ『blue』(マガジンハウス、一九九七年)
「ブルーコミックス論」9 山本直樹『BLUE』(弓立社、一九九二年)
「ブルーコミックス論」8 山岸涼子『青青の時代』(潮出版社、一九九九年)
「ブルーコミックス論」7 白山宣之、山本おさむ『麦青』(双葉社、一九八六年))
「ブルーコミックス論」6 狩撫麻礼作、谷口ジロー画『青の戦士』(双葉社、一九八二年)
「ブルーコミックス論」5 安西水丸『青の時代』(青林堂、一九八〇年)
「ブルーコミックス論」4 佐藤まさあき『蒼き狼の咆哮』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」3 川本コオ『ブルーセックス』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」2 序 2
「ブルーコミックス論」1 序 1