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古本夜話162 誠文堂『大日本百科全集』の謎

これまでずっと小川菊松『出版興亡五十年』を利用してきたので、ここで小川を主人公とする円本の話を、ひとつ記してみよう。
出版興亡五十年

大正三年に誠文堂から『子供の科学』を創刊した原田三夫の、興味深い回想録『思い出の七十年』誠文堂新光社)の中で、取次至誠堂の小僧時代の小川が描かれ、「目から鼻にぬけるような利巧もの」と評されていた。原田の同書については拙著『古本探究2』で既述している。
思い出の七十年  古本探究2

そのような小川ゆえに、円本時代にあっても冷静で、むしろ円本の流行を功罪の両面から見ていて、それは『出版興亡五十年』の「円本流行の経過とその末路」という章によくうかがわれる。それゆえに誠文堂の円本も、小川の客観的視点に基づく『大日本百科全集』として刊行されたのである。

これは意図したわけではないが、それらを少しずつ均一台で拾っているうちに、数えてみると十九冊に及んでいた。まだ全巻を見るに至っていないにしても、このシリーズは実用書の集大成のように思われる。円本時代の内容見本を集めておけば、戦後の出版企画には困らなかったとは山本夏彦の言であったが、『大日本百科全集』を揃えておけば、すべての実用書企画が浮かんでくるようなラインナップになっている。

それもそのはずで、誠文堂は大正時代に「是丈は心得おくべし」という一連の実用書によって、創業の基礎を築いている。これは日常生活のすべての分野に役立つ知識を盛りこんだ実用書で、十六冊出して百二十万部を売り尽くしたとされている。全冊は挙げられないので、タイトルの数例を示せば、「社交要訣」や「日常法律」などの下にすべて「是丈は心得おくべし」がつくのであり、間違いなく『大日本百科全集』はこのシリーズをベースにして成立している。つまり「社交要訣」は『処世社交術』というように、「是丈は心得おくべし」を円本企画に仕立てたのが『大日本百科全集』だといえよう。小川はそれについて次のように述べている。多少長くなるが、彼の円本時代のオリジナルな出版戦略を見てみよう。

 「大日本百科全集」(全三十七巻各定価一円)は、私がやつたものの中で成功したものの一つであるが、これは私一流の独自の企画がかくあらしめたものである(中略)。百科全集は、昭和二年五月に第一回配本として、一巻と二巻と二冊を同時に配本したものであるが、出版界は円本の続出で凄絶の空気に覆われ、恐慌気分台頭の際であつたから、本の売れ行きも悪くなつていたので、特殊な予約募集方法でなくては成功しないであろうと頭をひねり、「自由選択予約」というこれまでに例のない予約形式をとつた。自由選択なので配本上空白が起る可能性があるので、毎月二冊発行を強行して完了を早め、中途から予約本の単行本化を断行し、(中略)予約出版だけでは手一杯かよしや損失になつたとしても、分売本中の図抜けた売行きのものを永久に単行本化して、充分に利益をあげることができるという信念を得たからでもあつた。

この小川の出版戦略は予想以上の大成功で、私の手元にある松川二郎の『名勝温泉案内』、雁金準一の『囲碁大観』などは分売部数が予約部数の六、七倍に達し、その他のものもほとんど二、三倍は売れ、残本はほぼ生じなかったらしい。そのために「円本界四苦八苦の中で、わが誠文堂は、ひとり涼しい顔をしていることができた」のである。

円本の全巻予約販売方式を採用せず、分売戦略が成功に結びついたのであり、小川の機を見るに敏な出版発想がよく表れているエピソードといえよう。もし従来の予約販売であったら、『大日本百科全集』は失敗していたと小川は述べているが、手持ちの十九冊を見ても、分売ゆえに成功したと判断せざるをえない。やはり全巻ではなく、必要な巻だけを求めるテーマ別実用書にして単行本の色彩が強いからである。

小川は『出版興亡五十年』の他にも、『商戦三十年』や『礎』などの回想録を刊行している。だが残念なことに誠文堂の全出版目録を残していないし、国会図書館でも巻が欠けているので、『大日本百科全集』全冊の明細が確定できない。それに小川は三十七冊と書いているが、新聞広告では三十六冊、『全集叢書総覧新訂版』では四十二冊となっているからだ。読者のご教示を乞う。

しかしいかに実用書とはいえ、短期間に全巻が五百ページを超えるシリーズを刊行するのは、それなりの出版プロジェクトであったと思われる。どのような編集者と人脈が介在し、多数に及ぶ著者が集められたのであろうか。さらに実用書の著者という立場からすれば、当然のことながら書くことは不得手な人物もいただろうから、口述筆記、リライトはつきものであり、またそれらを担当する人々も多く存在していたことになる。

なぜこのようなことを考えたかというと、ある巻に一枚の「誠文堂ニュース」がはさまれ、昭和三年五月の配本が『家庭管理法』と『主義学説の字引』の二冊として、挙がっていたからだ。前者は所持していて、著者は日本女子大学家政学部長の井上秀子、後者は未見であるが、著者はマルクス主義者の佐野学となっている。この二冊のタイトルの組み合わせと同様に、二人の著者のアンバランスな立場も奇妙に映る。大日本百科全集の中でも、『主義学説の字引』はとりわけ二段組みの大冊で、原稿用紙千五百枚に及ぶ「古今東西に亘る尨大な学芸辞典」と紹介され、次のような説明がある。

 著者佐野学氏は新進の思想家であり、且つプロレタリア運動の先駆者であり非常に多忙の際、東西の学芸書を渉猟し、多数の助手を督しつつ約一年の日子を費しつつ完成したものである。

しかし諸説はあるにしても、佐野学は昭和二年に日本共産党中央委員長に就任し、三年三月、おそらく「誠文堂ニュース」が出された頃、上海に亡命している。したがって佐野は「約一年の日子を費しつつ完成した」というような状況に置かれていない。おそらく「多数の助手」とあるから、佐野の関係者たちが編纂し、その名を冠して出版した一冊ではないだろうか。「誠文堂ニュース」の編輯人は有坂勝久で、調べてみると理科の教科書などの著者でもあるが、彼もその関係者かもしれない。

小川の回想録からもそのような痕跡はまったく見出されないが、『主義学説の字引』が示している事実は、マルクス主義者たちと実用書出版社が提携していたことを示していて、円本時代の出版と編集の謎の深さを垣間見せている。

なお本連載60「野村吉哉と加藤美侖」で、それらの謎の一端にふれているので、よろしければ参照されたい。

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