出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話163 田口掬汀、日本美術学院、『美術辞典』

これも小川菊松絡みになってしまうが、やはりずっと論じてきた草村北星と同様に、同時代の家庭小説家にして出版者であった田口掬汀についても、ここでふれておこう。田口のことは同じく拙稿「田口掬汀と中央美術社」(『古本探究3』所収)ですでに一度言及し、その孫にあたる高井有一が田口の伝記ともいうべき『夢の碑』(新潮社)を著していることなどを記しておいた。

古本探究3

その際には田口が大正四年に中央美術社から創刊した美術総合誌『中央美術』と円本時代の五種類の出版物を取り上げたのだが、入手していなかったこともあって、同じく田口を経営者とし、学校も兼ねる日本美術学院の本にふれてこなかった。だがその後それらを二冊入手したこと、またあらためて小川菊松『出版興亡五十年』において、次のような一節を読んだこともあり、もう一度田口についても書いておくべきだろうと思ったからだ。
『出版興亡五十年』

小川は新潮社の佐藤義亮を論じた後で、田口と草村にも言及している。

 同氏とほゞ同時代の文士で、出版業を開始したものに、小説家田口掬汀氏あり、同じく小説家草村北星あり、田口氏は美術雑誌を発行したが最後は振わず、(後略)

この後で小川が続けているのは、田口や草村が出版者として大成しなかったことに対して、新潮社の佐藤が成功したのはひとえに経営の一切を担当した中根駒十郎という妹婿の存在があったからで、田口や草村にはそのような女房役がいなかったとの言外の分析である。

ここには取次や書店を経験し、流通販売に通じた後に、出版社としての誠文堂を立ち上げた小川ならではの視線による分析が見られる。小川がいうように、佐藤、田口、草村は「同時代の文士」であり、『新潮社四十年』に掲載された明治三十六年の上野での「新声誌友会」の写真には三人の名前も見える。田口は新声社の社員だったから当然であるが、草村も言及はないにしても、『新声』の誌友的立場にあり、それが後の佐藤からの『新声』の譲渡と隆文館での復刊につながっていったのだろう。

この三人は編集の才もあり、同じように「出版業を開始した」ものの、佐藤と異なり、草村や田口には経営をまかせる人材がなかったがゆえに、「最後は振わず」との結果を招いたと小川はいっているのである。いや、それは田口や草村ばかりでなく、近代出版史にはそのような出版者たちが無数にいて、死屍累々の歴史を積み重ねてきたのだといえよう。

田口の出版人生もそのような苦難に充ちていたことはすでに拙稿でふれているので、ここではその中央美術社の地続きというべき日本美術学院が刊行した『美術辞典』を取り上げてみたい。この辞典は先駆的な一冊だと考えられるのに、もはや忘れ去られてしまって久しいように思われるからだ。歴史図書社から復刻が出されているが、それも三十年以上前である。

この『美術辞典』は大正三年に初版が刊行され、私が所持しているものは大正六年四版であり、編著者は石井柏亭、黒田鵬心、結城素明、発行者は田口鏡次郎、発行所は本郷区湯島の日本美術学院となっている。結城は『新声』の関係者で、田口とともに日本画研究の金鈴社も立ち上げているので、当然のことながら日本美術学院設立にも深くかかわっていた。それは画家の石井や美術評論家の黒田も同様であるゆえに、編著者として名前を連ねているのだろう。田口鏡次郎はもちろん田口掬汀の本名である。

この『美術辞典』は四六判ながら、九百五十ページ近い、堅牢にして、背革天金のケルト模様の中にタイトルと版元名が位置し、その上には「ART DICTIONARY」との表記が施され、瀟洒なイメージも兼ね備えている。そして「いろは引」と「五十音引」は時代の過渡期を伝えているが、多くの図版を配し、大正時代の美術の位相を表象させているし、個々の項もそれぞれ興味深い。

例えば、「印象派」はこの用語ではまだ立項されておらず、「インプレッショニスト」とあり、次のような説明が記されている。

 印象派は近代絵画の一派である。此派の人々は、自然を細かく在りのままに写すといふより寧ろ刹那に眺めた自然を出来る丈け自分の心に印したままに描き出さうとする。刹那に眺めた自然、殊に風景は、僅かな筆数(ふでかず)と力のある筆触(タツチ)とを以て描き出される。(後略)

最初の部分を引いたが、このようにして「印象派」はまず「インプレッショニスト」として日本に紹介されていたとわかる。おそらく想像するに、このような辞典の誕生を見て、明治から様々に紹介されていた美術用語も「インプレッショニスト」から「印象派」へと転化していったように、大正を通じて日本語へと移されていったのではないだろうか。

『美術辞典』に「序」を寄せている伯爵の林博太郎はこれらの状況を踏まえてか、「日本美術学院が新たに美術辞典の発行を企画せるは頗る宜に適へるもの」で、これまで「術語本位の美術辞典」は西洋にあっても、日本にはなく、この辞典の出現は「実に未曾有のこと」とまで讃辞を送っている。

またもう一冊手元にある日本美術学院の足立源一郎著『人物画を描く人へ』(大正十二年五版)の巻末広告には「日本唯一の芸術辞典」とあり、「増補七版発行」との惹句も掲載されていることからすれば、田口掬汀が日本美術学院から満を持して刊行したであろうと思われる、この『美術辞典』はその分野における最初のものであったのかもしれない。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら