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古本夜話167 新潮社と小栗風葉『終編金色夜叉』

尾崎紅葉の『金色夜叉』はその死によって未完に終わったが、紅葉門下の小栗風葉が書き継ぎ、明治四十二年に新潮社から『終編金色夜叉』として刊行した。大正四年の縮刷二版が手元にあり、この出版もまた前回の巌谷小波の『金色夜叉の真相』と同様に、『金色夜叉』の後日譚と思われるので、それも書いておくべきだろう。
金色夜叉

小栗風葉といえば、国木田独歩の死に際しての田山花袋との対立、真山青果や中村武羅夫と結成した大酒飲みグループの戸塚党、中村光夫が『風俗小説論』(新潮文庫、のち講談社文芸文庫)で再評価した『青春』の著者のイメージが強いが、「世間師」などの優れた短編もあり、また『終編金色夜叉』に続き、「金色夜叉外編」として『荒尾譲介』の本編と終編も刊行し、師の紅葉を正統的に継承したとも考えられる。そればかりか、硯友社同人としては新潮社との関係も特筆すべきで、新声社時代の「アカツキ叢書」の企画相談相手、中村武羅夫の入社も風葉の紹介によっている。

風俗小説論

そのような前史があって、佐藤義亮は風葉に『終編金色夜叉』の執筆を依頼したのである。佐藤は「出版おもひ出話」(『新潮社四十年』所収)の中で、次のように書いている。

 初期の新潮社が出した小説中、その暴風的な売行で世間を驚かしたものは、小栗風葉氏の『終編金色夜叉』であつた。
 私はかねがね紅葉の『金色夜叉』に結末の無いのを惜しみ、これを風葉氏あたりに書いて貰つたら面白からうと思つて居た。
 明治四十年の暮れ近い頃だつた。私のこの考へを知つて居る真山青果氏がやつて来て、
「先生(風葉氏)は今ひどく金に窮して居て、この暮れは越せさうもないから、金を出して、否応無しに承諾させたら……」
 私は渡りに舟の名案と喜んで、早速五百円だつたか八百円だつたかの前金を渡して、兎に角執筆することに約束し(ママ)たのである。

佐藤はここで書いていないが、風葉の「『終編金色夜叉』の執筆について」(前書所収)によれば、その前に「後の金色夜叉」なる原稿を持ちこまれ、それを買い取り、風葉に参考にするようにと届けていた。その一方で、以前に「脚本金色夜叉」を発表した時、風葉も「故紅葉山人の腹案覚書」を紅葉の晩年の書生だった北島春石より買い受けていた。

この「腹案覚書」はやはり同書に収録されている。「後の金色夜叉」がそれに依拠していることは明白だった。風葉もこの「腹案覚書」が信用すべきものと考え、それにそって筋を進めたので、「唯本篇の脚色の強ち余が独案にのみ非ざるを諒とせられん為め」に、「腹案覚書」を転載していることになる。しかし風葉にとっても、紅葉の文体を生かし、無理なく筋を引き継ぐのは容易ではなく、佐藤は原稿を毎日一枚、二枚と受け取ることを明治四十一年中繰り返していた。

それに風葉も知らなかったのだが、この「腹案覚書」は偽物だったのだ。その事実が伊藤整の『日本文壇史』14に記されている。
日本文壇史 14

 北島は紅葉の書生をしている間に、巧みにその筆跡を真似るやうになつた。尾崎家には紅葉が半紙に書いた筋書きがあつた。それは上半部に事件を書き、下半部に書く人物の動きを書いたものであつた。北島はひそかにそれを偽筆によつて筆写したのである。大体は原文の通りであるが、上段と下段の事項が書いているうちに位置が移動したため、筋が少し狂つたものになつた。

風葉はそれに惑わされ、辻褄を合わせるのに苦労した。さてここで風葉は「北島某氏」と呼んでいるが、北島春石についてもふれておくべきだろう。本連載27「北島春石と倉田啓明」で彼のことは既述しているが、もう一度記しておきたい。そこで桜井均の著書『奈落の作者』(文治堂書店)に登場する北島にも言及した。桜井は北島のことを、紅葉の死後、同門の先輩の柳川春葉の弟子になり、二流の小説家ではあったが、筆が立ち、多くの小説を書き、いくつも代作をしていると述べていた。そしてさらにその弟子にしてホモセクシャルの偽作者倉田啓明、つまり「奈落の作者」にも筆を及ぼしていた。「後の金色夜叉」を新潮社に持ちこんだ人物の名前は明かされていないが、北島の周辺の作家であることは確実で、倉田であった可能性も高い。

それに加えて、明治四十一年の二月にはやはり紅葉の弟子の篠原嶺葉による『新金色夜叉』が大学館から刊行された。これは未見であるが、いかがわしい部分があり、発禁処分を受けたという。また同四十二年には彩文館から、かへで生によって、同四十三年には大学館から桃葉散史によるものも刊行されているらしい。

これらの事情を考えると、紅葉死後における弟子たちの配置図とその関係が浮かび上がる。正統に属する泉鏡花や徳田秋声たちは博文館の『紅葉全集』に参画し、孤立の色彩の強い風葉が新潮社と組んで『終編金色夜叉』の執筆に向かい、二流の弟子たちも『金色夜叉』』の続編などを試みたりするという、紅葉の文学的遺産の出版争奪戦を展開していたように映る。風葉自身も博文館や春陽堂ではなく、新潮社から刊行することに対し、「『終編金色夜叉』の執筆に就いて」の中で、その弁解の言を述べている。明治四十二年四月の刊行後、佐藤の言にあるように、「暴風的な売行で世間を驚かした」にもかかわらず、風葉は養子先の豊橋に帰省し、それ以後東京で再び生活することはなかった。この事実は『終編金色夜叉』の刊行のトラウマを伝えているように思える。

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