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古本夜話168 広津和郎、芸術社『武者小路実篤全集』、大森書房

二回ほど飛んでしまったが、草村北星や田口掬汀の出版事業にずっと言及してきたこともあり、やはり同時代に出版に携わったもう一人の文学者についてもふれておきたい。それは広津和郎である。

そのひとつの理由として、遅ればせだが、一度見たいと思っていた芸術社の『武者小路実篤全集』に、浜松の時代舎でようやく出会ったことも挙げられる。ただ全巻揃いではなく十冊ほどで、一冊千円だったので、とりあえず内容見本代わりに第十巻の随筆集を求めてきた。箱入天金革装、岸田劉生による装丁、大正十二年刊行の奥付には「非売品」とあり、発行者として広津和郎の名前が記されていた。

つまりこの全集も草村北星たちが採用していた予約会員制出版によっていたとわかるし、おそらく直木三十五(植村宗一)たちが春秋社によって刊行した『トルストイ全集』の成功を範とし、出版の運びになったのであろう。見るからに経費がかかっている造本で、八百ページに及び、バブル時代には全巻揃いで数十万円の古書価がついたといわれている。

この芸術社版『武者小路実篤全集』の出版の経緯については広津和郎『年月のあしおと』講談社文芸文庫)の中で、「出版の失敗」として語られている。その頃直木三十五が人間社という出版社を手がけ、雑誌『人間』と『ロマン・ローラン全集』を刊行していたが、倒産寸前に追いこまれていた。直木は人間社の他にも、鷲尾雨工と冬夏社、三上於菟吉と元泉社を設立し、人間社と同じく、いずれも失敗に終わっている。直木の出版社遍歴に関しては、拙稿「春秋社と金子ふみ子の『何が私をかうさせたか』」(『古本探究』所収)を参照されたい。

年月のあしおと 古本探究

それらはともかく、最初に挙げた人間社に「U」という有能な男がいて、広津はこの「U」のために新しい出版社の芸術社を立ち上げたのである。この「U」のことはすでに『日本古書通信』連載の「古本屋散策」96(一〇年三月号)で、「上村益郎と高見沢木版社」として実名を挙げて書いてもいる。

その芸術社の企画として、最初は儲けるためにコンサイスの辞書のような用紙を使った七、八百ページのポケット職業別電話帳を考えたが、広津の武者小路に対する文学的関心から、まず先に『武者小路実篤全集』を出すことになり、日向の「新しき村」に赴き、武者小路から出版の許可を得たのだった。しかしこの出版は失敗に終わってしまった。広津はその事情を次のように書いている。

 出版の結果は失敗であり、途中から印税も払えなくなり、武者氏に迷惑をかけたが、実は出版としての損失は大したことではなかつたが、それを出している途中例の関東震災があり、(中略)その後で調べると、Uがすっかり使い込みをやつて大穴を開けていたことが解つて来て、それが痛手となつたのである。

それでも予約出版であったために刊行を続けるしかなく、借金を積み重ね、手形に追われ、ようやく全十二巻を完結させたようだ。

だが芸術社の『武者小路実篤全集』の失敗にもめげず、広津は性懲りもなく、昭和円本時代に入って、またしても出版社を始めるのである。それは保高徳蔵の「ある時代の広津和郎氏」(『作家と文壇』所収、講談社)に書かれている。この作品は小説となっているが、ほぼ実話と判断できるし、円本時代を描いた広津の「昭和初年のインテリ作家」(『広津和郎全集』第2巻所収、中央公論社)と対をなしている。広津は出版資本に抗するための執筆者協会の創立を考え、その経費十万円を用立てるつもりで、出版を提案する。「保高君、僕は金を儲けるためには、芸術的な書物の出版はしない。赤本をやります。赤本の出版を……」。当時は実用書のことを「赤本」と呼んでいたのである。

そして大森書房が設立された。保高と詩人の西川が校正係、支配人が広津の腰巾着の山川で、最初の出版は『名人・八段指将棋全集』全八巻だった。これは関根名人を始めとし、八段の全員の棋譜を収録し、詳細な解説を施した四六判五百ページの浩瀚なもので、将棋ファンの研究書、及び将棋文献として後世に残ると広津は信じたのである。関根名人の後押しもあり、この「遊戯書の出版」は成功間違いなしと思われた。支配人の山川は大阪、京都、神戸の取次営業に回り、それなりの予約部数を確保してきた。ところが第一回の広告をうってまもなく、神田の銀月堂書房から『将棋大講義録』という類書の広告が出され、両社の宣伝合戦が始まり、広津は自ら広告文を書き、またその絵も描き、投じられた広告費は一万円以上に及んだ。

第一巻が出来上がり、広津は景気のいい数字を期待したが、山川は読者を四千人と想定した。四千部が採算分岐点で、儲かるどころではない初版部数だった。それなのに第一巻は返品に次ぐ返品で、六畳の部屋一面にうず高く積み重ねられた。月を追って続刊したが、実売は千部ほどであることが明らかになった。紙代、印刷費、印税、広告費の未払い金と手形は三万数千円に達した。月々の給料も捻出できず、大森書房も最後を迎えていた。保高は書いている。

 債鬼を避けるために広津氏の姿は殆ど見えず、後には山川銅之助すら債鬼から隠れるために姿を消すことが多くなつて、返品の山と積み重ねられた中に、佐藤少年が一人で悄んぼり留守番をしていることがよくありました。

その後広津は広告代理店から破産申請を起こされ、返済方法を立てて和解の道を考える他はなかった。そうしなければ、原稿料も印税も差し押えられてしまうからだ。それに加え、全集の紙型を神田の真文堂に売ったことで、西川から分け前の要求を受けていた。

つまり「円本に於ける出版業者の態度に対する不満から、執筆業者が出版業者に要求を持ちかける機関を作ろうとして始めた『将棋全集』で、広津氏は結局、出版業者の立場に立たされている」のだ。保高は広津の聡明な顔に「一層強くドン・キホーテ的風貌」を感じるのだった。

念のために例の書誌研究懇話会編『全集叢書総覧新訂版』を繰ってみると、昭和二年の大森書房の『名人八段指将棋全集』が掲載されていた。やはり実話だったのだ。そしてさらに付け加えておけば、銀月堂書房の『将棋大講義録』とは金星堂の『将棋大衆講座』、広津が紙型を売った真文堂は小川菊松の誠文堂で、それは『将棋大全集』として出版されたと思われる。

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