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古本夜話169 村松梢風と『騒人』

前回の広津和郎の出版事業に引き続き、同時代にもう一人の文学者が立ち上げた出版社のことも書いておこう。それは彼が代表作を田中掬汀の中央美術社から刊行していること、本連載166の巌谷小波のように息子によって評伝が書かれてもいるからだ。彼の名前は村松梢風で、その出版社は騒人社である。

村松梢風は大正十五年四月に個人雑誌『騒人』を創刊し、これも代表作たる『正伝清水次郎長』や『上海』の連載を始めている。その創刊号が手元にあり、菊判六十四ページの奥付には発行兼編輯人として、彼の本名である村松義一名が記され、発行所は騒人社となっている。その上の村松の「編輯後記」には個人雑誌のつもりだったが、「交遊の諸君」の「楽屋総出で応援」もあって、このようなページに及んだと述べられ、その横の巻末ページには中央美術社版の平福百穂装丁の『本朝画人伝』全三巻の広告が掲載されている。
本朝画人伝 (中央公論社版)

『日本近代文学大事典』の解題によれば、『騒人』は梢風の個性を反映した独特の文芸読物雑誌で、自らの前述の作品に加え、田中貢太郎の怪談物の傑作、長谷川伸の『沓掛時次郎』や『瞼の母』といった名作戯曲を掲載したが、経済的負担と創作活動の妨げとなるために、昭和五年で廃刊されている。この間に騒人社は『騒人』のみならず、書籍をも出版し、その独特な装丁の数冊を見ているけれども、古書価が高いこともあって、入手には至っていない。『騒人』も創刊号しか持っておらず、その後の出版広告を確かめていない。だから騒人社の書籍の出版点数と明細は挙げることができないし、騒人社そのものについてもはっきりとしたアウトラインをつかめずにいた。

日本近代文学大事典 瞼の母・沓掛時次郎 (ちくま文庫)

ところが平成時代に入って、息子の村山暎が「女・おんな、また女 村松梢風の生涯」とサブタイトルのある『色機嫌』(彩古書房)を上梓し、そこに「『騒人』時代」の一章を割いてくれたことによって、ようやく『騒人』とその時代が明らかになった。それを要約抽出してみよう。

『中央公論』編集長の滝田樗蔭に見出された梢風は、樗蔭の死によって編集体制が変わったことで、「説苑」というデビュー以来の常連執筆欄を失ってしまった。そこで思いついたのが個人雑誌、すなわち『騒人』の創刊だった。創刊号は一万部刷ったが、八割が返品として戻り、次号から五、六千部へと減らしたが、二千部そこそこの売れ行きで、それは創刊号から変わらず、当然のことながら赤字が続いた。そこで梢風の『馬鹿囃』『梢風情話』『支那漫談』、田中貢太郎の『怪談傑作集』などの二十五、六冊を刊行したけれども、売れたのは『支那漫談』だけだった。

それでも騒人社が五年間も続けられたのは、虎の門で松葉のエキスからなる怪しげな薬を売っていた国谷豊四郎という人物を通じて紹介された『二六新報』創始者の秋山定輔、大阪の侠客小林一家の親分で、大日本正義団盟主でもある酒井栄蔵の援助があったからだ。その代わりに梢風は秋山と小林の伝記を書いている。

この二人の援助の他に、昭和初期円本時代の恩恵がもたらされたことも『騒人』が続いたもうひとつの理由だった。まずは平凡社の『現代大衆文学全集』の一冊に、『正伝清水次郎長』などが入った『村松梢風集』が編まれたこと、それから梢風自身が同じく平凡社の円本『伊藤痴遊全集』を企画編集したことによる印税とマージンのすべてが注ぎこまれていった。

『平凡社六十年史』は後者について、次のように述べている。

 「伊藤痴遊全集」も手堅い読者層にささえられて着実に売れたシリーズだった。はじめは「西郷南洲」などをふくむ全十二巻の企画としてスタートし、読者の熱望に応えて六巻を加え、それでもなおかつ収録できなかった代表作を、続巻十二巻に編成し、全三十三巻として完結した。(中略)
 「伊藤痴遊全集」は作家の村松梢風のアイデアによるものだった。当時の「騒人」という個人雑誌を主宰していた梢風は、その直接購読者名簿を繰っているうちに、伊藤仁太郎(痴遊)の名前を発見し、雑誌は寄贈するから何か原稿を書いてほしいともちかけ、それが機縁となって痴遊の選挙の応援に出かけたりした。(中略)
 梢風が痴遊から全集出版の権限をゆだねられたのは、ヨーロッパ旅行に出発する直前のことだったらしい。印税の何割かを頂戴するということで話は決められ、梢風は痴遊の留守中に奔走し、平凡社へ持ちこんで許諾を得た。

自由党に加わり、投獄も経験し、政友会の代議士になった伊藤痴遊の政治講談は予想外の好評を得て、予約者も三万人を超え、その後の戦時中の廉価普及版は二十万部近くに達したという。その『伊藤痴遊全集』の一冊に目を通してみると、語り口は『現代大衆文学全集』の新しい「時代小説」と地続きで、旧来の政治講談が想像以上にその近傍にあったことを感じさせる。

このように梢風は秋山や酒井からの援助、円本からの思いがけない収入のすべてを注ぎこみ、赤字続きの『騒人』を支えたが、号を追うごとに寄稿者も増えたために、百ページを超える分厚いものになり、それでいて売れ行き部数は伸びなかったので、赤字は決して解消されなかった。そして赤字に赤字を重ね、梢風はそれによって借金で首が廻らなくなる状況にまで追いやられた。

しかし『色機嫌』が伝えているところによれば、広津和郎が『名人八段指将棋全集』を企画し、競合円本が出て破綻に追いやられたように、梢風もまた『落語全集』を刊行し、講談社の『講談落語全集』とバッティングし、内容は『落語全集』のほうが充実していたにもかかわらず、圧倒されてしまったことが騒人社の命脈にとどめをさしたという。「騒人社時代は梢風の一生の中でも困苦の時代だった」と村松暎は記している。

広津とは逆に、梢風は平凡社の『伊藤痴遊全集』の成功を身をもって体験してしまったゆえに、余計に『落語全集』にのめりこんでしまったのかもしれない。だがこのふたつの落語の全集は未見のままである。

なおこれはいうまでもないかもしれないが、村松友視は梢風の孫にあたり、叔父とは異なる、祖父の「女」を『鎌倉のおばさん』(新潮社)などで描くことになる。

鎌倉のおばさん

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