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古本夜話171 大泉黒石『老子』、仲摩照久、新光社

大正時代の出版が宗教と奇妙な小説によって彩られていたことを既述してきたが、ロシア人を父とし、日本人を母とする日露混血で、ロシアやフランスでの生活を体験してきた大泉黒石も、そのような時代を象徴する多彩なキャラクターであったと思われる。それは『俺の自叙伝』(『現代ユウモア全集』第十巻所収、同刊行会)を一読しただけでも明らかである。

その黒石が新光社から出した『老子』は大正時代のベストセラーで、小川菊松の『商戦三十年』(誠文堂、昭和七年)によれば、「大泉黒石氏の『老子』の如き、当時の洛陽の紙価を高らしめたものであつた」とされる。実際に手元にある『老子』を見ると、大正十一年六月発行、十月三十六版とあり、またその続編と見なせる同年の『老子とその子』(春秋社)も十一月発行で、たちまち六版となっているので、小川の証言を裏づけている。

この「創作」とある『老子』はひとつの寓意小説と見なせるだろう。中国の周の洛陽から隣国の晉へとやってきた李耳老人が、旅人たちの利用する木賃宿に泊まり、同宿の客と話しているところから始まる。老人は一ヵ月前まで周の景王につかえ、周室の図書館長であった。だが王も諸大臣も役人も愚物、凡骨ばかりだったので、王にあえて献言をして、「道」を説き、大臣や役人たちから嫌われ、職を退くことになったのだった。この李耳老人の説く「道」の内容は中国古典『老子』に述べられている事柄であるから、彼が表題の「老子」に擬せられていることがわかる。
老子

しかし老人が様々にもらす思想や独白から判断すると、彼は老子だけでなく、キリスト教やドストエフスキーなどの影響を強く受け、自らの究極の聖者のイメージをも抱いているようなのだ。それは大泉黒石ならではのこの時代において幻視された王権、もしくは天子像なのかもしれない。その表白を引いてみる。

 周の景王に天子としての資格を疑つてゐた李耳老人の頭には自から彼が空想してゐた光輝ある王者があつた。それは(中略)世界のすべてを統治する力をそなへたところの、唯一人の聖者の幻想であつた。恐らくそれはこの地上に拝むことの出来ないかも知れない幻想の王者であつた。彼の冠は無抵抗であつた。その蔭には慈悲の眼と謙遜の口とがあつた。彼は土に染める手をひろげ、平等の靴を穿き、素朴な襤褸服の中には水のやうに拘づまぬ貴い心を持つてゐた。そして彼は無位無冠の玉座に坐していた。

老子の「道」に加え、このような「聖者の幻想」を合わせ持つ李耳老人を中心にして、旅芸人と労働者=革命家が絡み、またそこに宿を営む父娘も加わり、物語は牢獄の中にまで展開されていく。

だがこの『老子』という物語もまた「小説」というよりも宗教的「大説」の趣きが強く、どうして「当時の洛陽の紙価を高らしめた」のかを実感として理解することは難しい。おそらく大正時代には多くのこのような宗教にまつわる小説、物語、言説があふれ、それらが文学や思想の水脈を形成していたと考えられる。

しかし前回ふれた未刊の『大正文学全集』には『大正宗教文学集』の一巻は編まれているが、そこには佐藤耶蘇基や大泉黒石は含まれておらず、また彼らの名前は他の巻にも見えていない。宗教と奇妙な小説の大正時代を立体的に捉えるためには、カノンとしての『大正文学全集』、それを補足する様々な個人全集、この時代には大いなる意味と影響があったのに忘れられてしまった、全集類には収録されない作品群の発掘と研究、それらに寄り添った出版社の検証のいずれもが必要だと考えられるが、それらはほとんど実現していないといっていい。

例えば、『老子』の版元の新光社に関しても、肝心なことは何もわかっていない。新光社を吸収した誠文堂の小川菊松によって、『商戦三十年』や『出版興亡五十年』などにおいて、あるいは原田三夫の『思い出の七十年』の中で、新光社と仲摩照久のことは確かに語られてはいる。それらによれば、仲摩は月刊雑誌『美人画報』や『飛行少年』の編集に携わった後、満州で新聞を発行していた立川軍平からの資本を得て、大正五年に新光社を設立している。そして同じく『世界少年』や『科学画報』を創刊し、単行本も三百冊余を刊行したとされる。そしてこれは何度も既述してきたが、高楠順次郎の『大正新修大蔵経』の大出版企画が関東大震災で烏有に帰してしまったこともあり、大正十五年に破綻する。その後を小川菊松が引き受け、新たな株式会社となった新光社は円本時代に入って、仲摩を編集局長的立場にして、『万有科学大系』『世界地理風俗大系』『日本地理風俗大系』などを刊行し、昭和十年に誠文堂と合併し、誠文堂新光社として新たに発足している。
出版興亡五十年思い出の七十年

それを機に新光社を去った仲摩は新たな出版社と鼻の治療薬の発売を始めたようだが、その社名は判明していない。その後昭和十九年に四十九歳で亡くなったという。

これらが仲摩の編集者、出版者としての軌跡であるけれども、その出自に加え、彼が作家崩れであったこと、大本教の近傍にいたことなどに関する詳細はわかっていない。新光社の高楠の『大正新修大蔵経』といった大出版企画、本連載100でもふれた「心霊問題叢書」、及び「仏教経典叢書」のようなシリーズ、それから多く出されていると推測される宗教書などはどのようにして出版の運びとなったのだろうか。

また『老子』の巻末広告には友松円諦や渡辺楳雄の仏教書の他に、ペルシャの宗教詩の加藤朝鳥訳『薔薇園』、日本の最初の回教徒である山岡光太郎の『回々教の神秘的威力』、山原たづ、宮田範、弘津千代の三女性によるインド仏教史戯曲『華子城物語』が掲載されている。これらの書目を見ると、これも、本連載132133でふれたように、スメラ学塾の中心人物の仲小路彰が同じく新光社からマホメット伝とされる『砂漠の光』を刊行していることを想起させる。

これらのことから想像するに、仲摩の編集と出版の触手は広範な宗教分野に及んでいたのではないだろうか。その大正時代における大本教、英国心霊研究協会、仏典出版ルネサンスの動き、イスラム教への注視ともポリフォニックに交差していたのではないだろうか。しかしそれらの謎は新光社の出版物の全容が明らかでないように、まだあかされていない。

なお仲摩と新光社の全容が判明していないこと、また大正時代のそのような文学者たちの作品が埋もれていることに比べれば、大泉黒石は造型社(発売緑書房)から九巻の全集も出され、『黒石怪奇物語集』(桃源社)や『ロシア文学史』(講談社学術文庫)も復刊されている。それだけでも慶賀とすべきかもしれない。


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