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古本夜話174 江原小弥太、越山堂、帆刈芳之助

大正時代の宗教小説といえば、もう一人江原小弥太の存在を挙げなければならないだろう。江原については宮島新三郎の『大正文学十四講』(新詩壇社、大正十五年)におけるリアルタイムでの証言を、まずは引いてみる。

 江原小弥太氏と言えば、大正十年度の文壇に突風的な出現をなして、文壇は言ふに及ばず、一般の思想界にいろいろな反響を呼び起した作家の一人である。五百頁位宛の『新約』(越山堂、十年四月)三巻を始として、次々に、『旧約』『復活』(隆文館、十年十一月)『短編集』(越山堂、十年十月)と僅か一年のうちに六冊もの集を発表した。その勢力の絶倫なるに先づ一驚を喫せざるを得ない。然しその元気が、『新約』の人気が案外であつた為めこれならといふ稍々向見ずの無鉄砲さでなかつたとは言へない。世評から言つても、『新約』は立派なものだが、その外のものはさうでもないといふことは、その半面に於て以上の事実を物語るものではないかと思ふ。

そして宮島は秀作と見なす『新約』について、同十年に『早稲田文学』に発表した六ページにわたる論を掲載している。彼によれば、『新約』は題材を『聖書』に求め、江原の人生観、恋愛観、社会観を披露し、キリストやユダや遠いエルサレムの国の出来事を描いて、そのまま現代に通じる悩みを扱った人生の『聖書』であるとされる。
聖書

実は江原を取り上げることに少し躊躇していたのは『旧約』しか所持しておらず、この『新約』が未読であり、入手していないからだ。だがここでふれておかないと、その機会は得られないかもしれないので、あえて書いてみる。それにまた宮島は言及していないが、江原はその後、『心霊学』も刊行し、本連載でたどってきた大正時代における宗教と心霊学の合流を身をもって示した人物でもあり、その出版に携わった越山堂の帆刈芳之助も興味深いからだ。宮島の記述では『旧約』『復活』は隆文館とされているが、私の所有する『旧約』は越山堂版で、大正十年十一月三十版である。それこそ最初は草村北星の隆文館から出され、越山堂へと移ったのだろうか。

『旧約』を読むと、『新約』も含めて、江原の自らの「前言」で言う「創作の癖」がわかるような気がする。『旧約』はやはり『聖書』の「創世記」を題材とし、それを江原の解釈による自己流のリライトと再構成を施したもので、小説とも論文ともいえないスタイルの「創作」となっている。それは書き出しの「世の初めに独の神があつた。そのほかには何も無かつた。彼れは自分たゞ独なのが寂しくてしやうが無かつた」という一文を読み、「創世記」の冒頭の「元始(はじめ)に神天地を創造(つくり)たまへり」の一節と比較すれば、そのニュアンスは想像できるだろう。江原の著作も大正時代のベストセラーと同様の独特のムードに包まれているのだ。それはこの時代にしか通用、理解されることのなかったものにちがいない。

同じく『心霊学』も越山堂から出され、同十一年七月三版とあるが、こちらも残念なことに下巻しか手元にない。ただその箱に著者の言葉として、「私は『新約』を創作するために、また小説家になるために生れて来たのではない。私はこの『心霊学』を著作するために生れてきたのである」が刷りこまれ、すでに「創作」から離れ、「科学」としての「心霊学」に向かっていきつつある江原の告白となっている。その叙述は「創作」と同様で、今度は『聖書』に代わって英国心霊研究協会のメンバー、フロイト、ベルグソン、中村古峽の著書などが挙げられ、それらを江原式にリライト、再構成したものであり、さらに自らの人生論を色づけ、ポジティブシンキング的な結論で終えている。江原の著作を通読して感じるのは、それらが大正時代の文学、思想、哲学、宗教、科学などのアマルガムを形成しているのではないかということだ。ということは江原の著作こそは、大正時代のそれらの集大成、もしくはいってみればパロディ的なものを体現していたのかもしれない。

さて話を転じて、江原と併走した越山堂の帆刈芳之助にふれてみる。彼は明治十六年新潟県生まれ、早大中退後、『時事新報』や『やまと新聞』の記者を経て、大正十年越山堂を創業し、『ナカヨシ』『少女界』『日本の子供』などの雑誌を発刊している。それとパラレルに江原本を相次いで刊行したことになり、とりわけ『新約』の売れ行きはすばらしく、半年ほどで一五八版に達したという。

帆刈と江原の接点であるが、帆刈は一時新潟の『柏崎日報』や『越後新報』の主筆を務めていたこと、江原は明治十五年柏崎生まれで、新潟県立高田師範を出て、やはり上京し、東京物理学校に苦学して通っていることから考えると、年齢も郷里もほぼ同じであり、東京において著者と出版者の道を協力して歩み始めたと判断してもいいかもしれない。

なお帆刈芳之助の越山堂は関東大震災によって被災し、廃業に至っているので、その活動期間はきわめて短かったことになる。しかしそのような短命の小出版社であったにもかかわらず、帆刈は『出版人物事典』に立項されている。それはその後の帆刈が出版業界紙『出版研究所報』(後の『出版同盟新聞』)を創刊し、また戦後の昭和二十一年に、四十一年まで刊行された『帆刈出版通信』も創刊し、長きにわたって出版報道に携わってきたことに求められるだろう。最近になって彼の著書が『出版書籍商人物事典』として金沢文圃閣より復刻された。

出版人物事典

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