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ブルーコミックス論23 石川サブロウ『蒼き炎』(集英社、一九九〇年)

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石川サブロウ『蒼き炎』全12巻は、山間の村の風景と、それに添えられた「明治中期、ある小さな村で二人の赤ん坊が生まれた」という一節から始まっている。一人は地主の長男の川上龍太郎、もう一人は小作人の同じく長男の大山竹蔵であり、二人は小学生の頃から絵を描くことに熱中し、画家になりたいと思っていた。

この龍太郎と竹蔵を主人公とする『蒼き炎』について、他ならぬ作者の言葉が第1巻の表紙カバーの見返しに寄せられているので、それをまず引いておこう。

 明治中期、日本洋画は、新しい時代を迎えた。黒田清輝と彼の結成した白馬会は、自由な精神と清新な画風で忽ちの内に、当時の青年画家を魅了し、多くの若者が集って来た。しかし絵だけで食える者などほとんどなく食うや食わずで病に倒れる者もあったという。彼らをそれほど迄にかり立てた物とは一体何だったのか? 僕は二人の主人公を通してそのエネルギーを燃やした「絵の世界」を描いていきたい。

この石川の言葉にあるように、『蒼き炎』黒田清輝の白馬会に象徴される、新しい洋画の勃興と発展に伴って出現した画家志望の若者の物語に他ならず、それを貫くテーマを挙げるとすれば、芸術とエロティシズムの問題だと考えていいだろう。

龍太郎は女性の裸体に美を見て、それを描くことを芸術だと考えるが、竹蔵はそこに根源的なエロスを覚え、描くこと、想像すること、犯すことが同様であるかのような手法を身につける。それゆえに、二人は絵画に対する同じ才能を持ちながらも、異なった道を歩んでいくことを宿命づけられ、それが『蒼き炎』の物語の展開を支えることになる。その水先案内人は、二人が上京の途中で出会った青木繁であり、黒田清輝と並んで、実在の人物として物語に華を添え、龍太郎と竹蔵のその後の運命を司る狂言回しの役割を演じている。

二人の運命を簡略にたどってみる。龍太郎は東京美術学校に進み、白馬会に裸体画を出品するが、竹蔵もまた吉原の遊廓金閣楼に住みつき、女郎たちをモデルとした裸で戯れる女たちの官能的な作品を提出する。しかし竹蔵の絵は展示すれば、官憲の圧力で白馬会がつぶされかねないので、才能は認められても、受け入れられず、かつて青木も受賞した白馬賞は龍太郎の作品に決定する。しかし龍太郎はそれを辞退し、パリ行きを決意する。

一方で竹蔵は召集令状が届き、日露戦争に兵士として従軍し、戦死の報が伝えられた。だが竹蔵はロシア人看護婦に助けられ、絵の才能によって生き残り、彼もパリへと向かった。

パリで二人を待っていたのは、フランスの有力者フォンテーヌ伯爵の娘ナタリーの肖像画をめぐる競作だった。龍太郎は伯爵、竹蔵は画商によって見出されていた。それは画商によって提案されたもので、十万フランの賞金がついたこともあり、所謂「エコール・ド・パリ」の四人の画家たちも参加することになる。その四人とはピカソユトリロ、パスキン、モジリアニであり、参加者たちが一堂に会する席で、龍太郎と竹蔵はようやく再会をとげる。またフォンテーヌはそこで新人たちによる娘の肖像画の競作の理由を、次のように述べる。

 「過去において、絵画は我々貴族のものでした。画家と一体になり、芸術を創ってきたのです。しかし今や印象派なるものの台頭によって、我々は時代の傍観者と化してしまった。
 それは我々の責任でもある。多くは古きものに固執し、新しきものを受け入れなかったからだ。更にそれらを拒みつづけるなら、芸術は永遠にわれわれの手から離れて行くだろう。
 ここにいる若き精鋭たちを支援することが我々が芸術を取り戻す唯一の道といえるのです。」

そして彼はそれが「これからの時代を創り上げる作品でなければならない」と付け加え、スピーチを結んでいる。

かくして六人による競作が公開される。作者の石川サブロウが最も力をこめて取り組んだ場面こそ、これらの六人による肖像画の提出シーンだったのではないだろうか。

ピカソアヴァンギャルドにふさわしい抽象的肖像画ユトリロはパリの風景の中に小さく溶けこんだ肖像画、モジリアニは彼特有の風貌、身体表現による肖像画、パスキンは哀愁をただよわせる繊細な肖像画として提出され、それらは「新しい時代の風」を感じさせるのだ。それはコミックによる絵画表現の試みとアプローチであり、その先駆的作品として、私はつげ忠男の「丘の上でヴィンセント・ヴァン・ゴッホは」(『つげ忠男作品集』所収、青林堂)を思い浮かべてしまう。

この四人の作品に対して、龍太郎と竹蔵の肖像画はどのように仕上げられたのだろうか。それらは比較対照の意味もこめて、まさに見てもらうしかないので、誰が勝利者となるのかも含め、これ以上の言及は差し控える。

さてここでタイトルの『蒼き炎』について記しておきたいのだが、この作品の中に直接「蒼き炎」という言葉は出てこない。第1巻の最初のところで、龍太郎と竹蔵が村の少女を裸のモデルとしていた時代について、「まだ赤い炎の時であった」と定義がなされていることからすれば、上京からパリ時代にかけてが「蒼い炎の時」だったことになるのだろう。そしてそれはおそらくメタファーとして、ピカソの「青の時代」とも重なっていると思われる。

しかしそのような物語における「赤」から「蒼」や「青」への転移に関して、黒田の「黒」、青木の「青」、白馬会の「白」といった色彩にまつわる名前や名称が連想され、それらも単に偶然ではなく、これらもまた物語のメタファーになっているのではないだろうか。

あらためていくつかの黒田清輝の画集を繰ってみると、あのよく知られた、龍太郎の作品に連なるイメージのある「読書」や「湖畔」ではなく、竹蔵のエロティシズムを強く喚起させる「マンドリンを持てる女」「裸体婦人像」「赤き衣を着たる女」「花野」といった作品にどうしても魅せられてしまう。おそらく石川サブロウ『蒼き炎』を構想するにあたって、黒田の画集を繰り返し見ているうちに、そこに龍太郎と竹蔵の二面性を有する黒田の作品の傾向と特質、芸術とエロティシズムの分裂に目を向け、それにさらに「エコール・ド・パリ」の画家たちを召喚することによって、一挙に『蒼き炎』の物語は成立したとも推測できるような気がする。そして三人の裸の女性を描いた黒田の「花野」は、竹蔵の白馬会出品の作品に相似しているように思われる。

なお石川の『北の土龍』も同じ美術をテーマとしているようだが、こちらはまだ読むに至っていない。


《読書》 《湖畔》《赤き衣を着たる女》 《花野》


次回へ続く。

◆過去の「ブルーコミックス論」の記事
「ブルーコミックス論」22 志村貴子『青い花』(太田出版、二〇〇六年)
「ブルーコミックス論」21 羽生生純『青(オールー)』(エンターブレイン、二〇〇二年)
「ブルーコミックス論」20 入江亜季『群青学舎』(エンターブレイン、二〇〇四年)
「ブルーコミックス論」19 さそうあきら『さよなら群青』(新潮社、二〇〇九年)
「ブルーコミックス論」18 篠原千絵『蒼の封印』(小学館、一九九二年)
「ブルーコミックス論」17 木内一雅作・八坂考訓画『青龍(ブルードラゴン)』(講談社、一九九六年)
「ブルーコミックス論」16 松本充代『青のマーブル』(青林堂、一九八八年)
「ブルーコミックス論」15 やまじえびね×姫野カオルコ『青痣』(扶桑社、二〇〇九年)
「ブルーコミックス論」14 やまじえびね『インディゴ・ブルー』(祥伝社、二〇〇二年)
「ブルーコミックス論」13 よしもとよしとも『青い車』(イースト・プレス、一九九六年)
「ブルーコミックス論」12 松本大洋『青い春』(小学館、一九九三年、九九年)
「ブルーコミックス論」11 鳩山郁子『青い菊』(青林工藝社、一九九八年)
「ブルーコミックス論」10 魚喃キリコ『blue』(マガジンハウス、一九九七年)
「ブルーコミックス論」9 山本直樹『BLUE』(弓立社、一九九二年)
「ブルーコミックス論」8 山岸涼子『青青の時代』(潮出版社、一九九九年)
「ブルーコミックス論」7 白山宣之、山本おさむ『麦青』(双葉社、一九八六年))
「ブルーコミックス論」6 狩撫麻礼作、谷口ジロー画『青の戦士』(双葉社、一九八二年)
「ブルーコミックス論」5 安西水丸『青の時代』(青林堂、一九八〇年)
「ブルーコミックス論」4 佐藤まさあき『蒼き狼の咆哮』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」3 川本コオ『ブルーセックス』(青林堂、一九七三年)
「ブルーコミックス論」2 序 2
「ブルーコミックス論」1 序 1