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古本夜話178 中村武羅夫『文壇随筆』

同じく「感想小品叢書」の中村武羅夫の『文壇随筆』も菊池寛の『わが文芸陣』と同様に、大正文学状況がリアルに伝わってくる一冊である。また中村は菊池の『文藝春秋』に対抗し、『不同調』を創刊しているので、この二冊は大正文壇の見取図のようにも読める。だが同じく新潮社から出された大正時代の中村の代表的小説『人生』にはめぐり会えず、まだ読むに至っていない。

紅野敏郎『大正期の文芸叢書』雄松堂出版)の中で、『文壇随筆』を評して、「大正文学、大正文壇に直接向きあう、まことに親しげな本といってよい」と率直に述べている。それに中村は『新潮』の編集者でもあったから、これらの「感想小品叢書」の企画にも関係していたかもしれない。ここでは『文壇随筆』について、私なりに興味深かったことを記してみたい。
大正期の文芸叢書

冒頭の「印象記」は漱石、鷗外に加え、大杉栄、岩野泡鳴、有島武郎の五人が語られ、その書き出しは内田魯庵から『思い出す人々』を一本贈られ、愛読しているという一文から始まっている。内田の『思い出す人々』には「最後の大杉」が収録されているので、中村の大杉についての一章はそれに触発されて書かれたのではないだろうか。

思い出す人々

中村の「印象記」の面白さは大杉と泡鳴を並べて論じているところにある。「とにかく、大杉と泡鳴とは、その体質にも、性格や気質にも、どこか似通うたところがあつた。その二人が、おなじやうな非業の死を遂げてしまつた」と中村は書き、大杉に「岩野泡鳴論」を書くことを頼んだ際のエピソードを紹介している。大杉は泡鳴の全著作を読み、苦心惨憺したにもかかわらず、「泡鳴のことを、偉大なる馬鹿」というフレーズに集約し、簡単に書くだけで終わってしまった。その前に中村は、大杉が「泡鳴論」を書いているので、反論があれば書いてほしいと泡鳴に伝えた。すると泡鳴は大笑いし、「さうか、大杉が僕のことを書くのか、それは面白いだらう。僕のことを偉大なる馬鹿だつて? わつはツはゝゝゝ。いひたひことがあつたら、僕も書くよ」と言ったという。いかにも泡鳴らしく、こちらも思わず笑みをそそられる。

そればかりでなく、新潮社から大杉が『種の起原』や『懺悔録』の翻訳、『社会的個人主義』などの著書、また泡鳴がアーサー・シモンズの『表象派の文学運動』の翻訳を刊行しているのも、中村との関係からであるとあらためて教えられた。泡鳴と『表象派の文学運動』については本連載で後述する。
また『文壇随筆』では当然のことながらタイトルに見合って、大正時代の文壇や文芸雑誌のことが語られている。関東大震災後、春陽堂の伝統ある『新小説』が編集に携わる菊池や芥川の手を離れ、娯楽雑誌に変わるという噂にふれ、有力な文芸雑誌が『新潮』だけになってしまうことを愁いている。そしてこれは春陽堂の問題のみならず、文壇全体が考えるべきで、『新小説』や『新潮』などの文芸雑誌は発行者や編集者のものではなく、文学者や文壇人や読者も含んだ「公器」と見なすべきだと主張している。そうしなければ、文芸雑誌は絶滅してしまうかもしれないと続け、次のように書いている。

 文芸雑誌のなくなつた文壇といふものを考へて見るといい。文芸雑誌のなくなつた作家の存在を考へてみるといい。本場所のなくなつた、地方巡業ばかりの大相撲のやうな、淋しいものじやないか。婦人雑誌や娯楽雑誌から、高い原稿料を出して引つ張り凧にされてる大家や流行作家だつて、その背景には文芸雑誌なんかの人気の計量器が附いて居ればこそだ。

明治後半になって、近代出版流通システムの成長とパラレルにマス雑誌が立ち上がっていくのだが、この時代の文芸雑誌は一万部内外で、出版社にとっても採算が合わず、文学者にしても原稿料が安いために収入として当てにならない存在になっていたことを、中村の述懐は意味している。それゆえに文学者が婦人雑誌や娯楽雑誌に流れ、文芸雑誌に力の入らない状況を迎えているために、文芸雑誌を「公器」と見なすべきだという発言につながるのである。つまり出版資本による文芸雑誌の刊行が、この時代にすでに難しくなっていたことを物語っている。

このような文芸雑誌状況と関東大震災後を背景にして、文学バブルといっていい円本時代が出現し、成金作家たちが次々と生まれ、新たなる文学神話が補強されていく。それは表面的なことであったとしても、出版と文学は様々に活性化したと考えていいだろう。その証左のように中村は大衆小説家の道を歩み始め、また一方で、出版資本ともいえない多くの小出版社を発行所とする無数の同人雑誌とリトルマガジンが、大正末期から昭和十年頃までに誕生し、昭和文学を用意し、支えたことになる。流行作家にして、同人雑誌『不同調』の主宰者だった中村は、『文藝春秋』の菊池と並んで、そのような出版、文学状況を象徴していたことになろう。

またさらに付け加えれば、文学者予備軍とその周辺から蔟生した小出版社群のコラボレーションともいえる同人雑誌とリトルマガジンの活動なくして、昭和文学の開花は不可能だったのではないだろうか。中村の『不同調』も菊池の『文藝春秋』もその中に位置づけられるし、中村の発言は大正時代の転換期における重要なもののように思われる。

そしてこれらの同人雑誌とリトルマガジンを支えたのは所謂「文壇」なるものだと考えられる。同じようにこれらの戦前の同人雑誌出身である水上勉も、その言葉が入った半自伝的な『文壇放浪』新潮文庫)の中で、「『文壇』に出られた」と何度も語っているし、水上と同様の状況を経てきた作家たちも、やはり同じ言葉を発している。だから乱暴に区別してしまえば、明治、大正文学は出版資本の文芸雑誌、戦前の昭和文学は小出版社の同人雑誌とリトルマガジン、それらと密接に関係していた文壇が支えたことになるかもしれない。
文壇放浪

その「文壇」について、中村は「新潮社に行つたつて発売しては居ない」が、「空気」の如きものとして、「説明に困難でも『文壇』は確かに存在して居る」と述べてもいる。しかしその「文壇」も昭和の終わりとともに消滅したと見なすべきだろう。そして文芸雑誌も今や風前の灯となっている。

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