出版・読書メモランダム

出版と近代出版文化史をめぐるブログ

古本夜話181 加藤武雄と『近代思想十六講』

中村武羅夫の『文壇随筆』を取り上げるにあたって、彼と並んで大正時代の新潮社を支えた編集者であり、また同じような大衆小説家へと転じていった加藤武雄に関しても、著作などを読んでみた。幸いにして、中村と異なり、加藤の代表作である自伝的長編『悩ましき春』(新潮社、大正十年)は昭和六十三年に加藤武雄記念会によって復刻されている。その復刻に携わったと思われる安西愈の『郷愁の人 評伝・加藤武雄』(昭和書院、一九七九年)を読み進めていくと、次のような記述に出会った。

 深夜のペンの軋りは、とりあえず金になる方へ指向する。『明治天皇一代記』は千二百枚の量となり、『天理教全書』や『欧州大戦史論』も手がけた。場ちがいなどとわがままは言えない。大町桂月の名で『八犬伝物語』を出す。『近代思想十六講』『社会問題十二講』、さらに『近代文芸十二講』『トルストイ研究十二講』(ママ)等々、「実はみな僕の代作だった。安い原稿を腕が折れるかと思うほど沢山書いた」と、あとで加藤は告白している。特に『近代思想十六講』は、名著の評を受けて版を重ねたのは皮肉であった。

このような状況に置かれた加藤の事情と経済について、説明を加えておくべきだろう。明治四十三年に加藤は中村武羅夫を頼って上京し、新潮社の訪問記者となり、翌年に新潮社に入社する。そして大正時代に入り、妻子を得る一方で、創刊された『文章倶楽部』や『トルストイ研究』の編集に携わり、『新潮』や『早稲田文学』に作品を発表していくのだが、家庭と故郷の両親を養うためには創作に専念できず、アルバイトに精を出すしかなかったのである。

当時の新潮社の給料水準は判明していないけれども、前身の新声社は明治三十六年に破綻し、同三十七年に新たに『新潮』を創刊し、新潮社として再スタートしている。しかし新潮社の出版活動が軌道に乗り始めるのは設立してから七年目と『新潮社四十年』に書かれているので、郷里の両親の面倒も見なければならない加藤にとって、充分な給料を得ていたはずもない。それに新潮社は講義録を出していた大日本国民中学会とタイアップし、佐藤義亮自らがその編集や会を通じて入ってくる様々な執筆仕事を引受け、新潮社そのものが編集プロダクション的側面を有していたから、必然的に加藤もそうした仕事に従事することになったのだろう。

だがそれにしても、新潮社の『近代思想十六講』などが加藤の手になるとは意外であった。やはり『新潮社四十年』に、これらの啓蒙的シリーズはいずれも大いに売れ、大正四年から総合して「思想文芸講話叢書」としたとの記述があり、全十六冊のうちの十二冊の書影が掲載されている。この中の二冊が手元にあり、一冊は楠山正雄の『近代劇十二講』、もう一冊はこれから言及する「非常な好評で売行の烈しさは当時の出版界を傾倒させた」という『近代思想十六講』である。前者については本連載であらためて取り上げるつもりだ。

手元の『近代思想十六講』は確かに中澤臨川・生田長江共著とあり、大正四年発行、同十一年四十三版は「売行の烈しさ」を示しているといえよう。だが加藤の告白の後に、この十六講からなる一冊を繰ってみると、「近代思想」と銘打ちながら、半分はトルストイドストエフスキイイプセン、ゾラ、フローベールロマン・ロランといった「近代文学」にあてられ、半分はニーチェ、スティルナー、ダーウィンウィリアム・ジェイムズ、オイケン、ベルグソンタゴールなどの「近代思想」に相当している。中川と生田の著作と研究から判断すると、大雑把に分けてしまえば、「近代文学」部分は中澤、「近代思想」部分は生田の著作からのリライトと再構成によって成立しているのではないかと推測できる。おそらく他の代作も同様になされたのではないだろうか。

本連載174「江原小弥太、越山堂、帆刈芳之助」で江原小弥太のリライトと再構成技法による「創作」に触れておいたが、大正時代に至って、そのような卓越した能力を有する青年たち、いってみれば近代読書社会によって培われ突出したリテラシーを身につけた青年たちが出版の世界へと現われてきたことを意味しているように思えてくる。またその多くが地方出身の独学者に近い存在であったことに注目すべきではないだろうか。それがずっと言及してきた、大正時代をめぐる出版物やベストセラーの謎の一端を形成することになったのかもしれないのだ。新潮社もまた佐藤義亮や中村武羅夫を始めとして、そのような人材によって形成されていた。

しかしそこには弱点もまとわりついている。私はゾラの翻訳者でもあるので、『近代思想十六講』の第十講「ゾラの自然主義」を見てみる。ここでゾラは自然主義の開祖として扱われている。その自然主義とは近代思想の最も重要なファクターで、それは科学的精神に基づき、科学的手法によって形成される。そしてゾラの生涯が語られ、そのような手法によって、「ルーゴン=マッカール叢書」「三都市物語」「四福音書」が書かれたと述べられている。またドレフュス事件におけるイメージも大きく作用しているのだろうが、ゾラの小説は社会の罪悪の原因を探し、その病弊を救い、社会を改良するために書かれていて、そこには救済の大理想が含まれ、ゾラは人道の戦士と位置づけられている。つまりここでゾラの自然主義はプロレタリア文学の近傍にあるという印象を与え、それはまず日本へのゾラの導入が社会主義陣営によってなされたことと密接につながっているのだろう。

だがそれよりも問題なのは「ルーゴン=マッカール叢書」がゾラの主要な著作として上げられているけれど、その作品名は引用部所に示された『居酒屋』『愛の一ページ』の原文カタカナ表記を除いて、ひとつも登場していないのである。つまりここでゾラの紹介はなされているにしても、その小説は一冊も読まずして、「ゾラの自然主義」一編が開陳されていることになる。それは『近代思想十六講』が出された大正四年時のゾラの翻訳状況を考えれば無理からぬことでもあり、この時点でまだ「ルーゴン=マッカール叢書」は一作たりともまともに翻訳されていなかったのである。したがって加藤はおそらく中澤のゾラに関する論文などを参照し、この「ゾラの自然主義」の項を書いたのではないだろうか。筑摩書房の『明治文学全集』50所収の中澤臨川の著作だけでなく、同じく大正の末期に春陽堂から出て、中絶してしまった『臨川全集』をひもとく機会を得て、そのことを確かめてみたい。

居酒屋 愛の一ページ

しかしそのような弱点があったのとしても、ゾラの翻訳が活発になるのは大正後半であることを考えると、この加藤によるゾラの一文は大いなるプロパガンダ効果を発揮したのではないだろうか。

なお本連載は思いがけない人間関係の連鎖を示すことも目的のひとつとしているので、付け加えておくと、安西による加藤の「略年譜」には見えていないが、加藤の娘の一人は磯崎新の最初の夫人だったはずである。これは丹下健三の一番弟子で、その研究室の代理的存在だった浅田孝との関係も絡んでいるのではないだろうか。磯崎は丹下研究所において、浅田の指揮下に万博の仕事にも従事している。浅田は丹下の戦時中の「大東亜記念造営計画」コンペなどにも関わり、戦後の万博の影のディレクターでもあり、浅田彰の伯父で、喪主は彰が務めたという。加藤は大東亜文学者会議などにも関係していたから、それらを通じて丹下や浅田とも交流があったのかもしれない。

また万博と建築のことでいえば、岡本太郎は太陽の塔の製作に携わっていたが、本連載125「『パリの日本人たち』と映画」で示したように、戦前のパリにおいても交流があり、後にスメラ学塾のメンバーとなる建築家の坂倉準三もパリ万博日本館の設計者だったから、二人の関係は続き、それによって岡本が召喚されたとも考えられるのである。当然のことながら、東大建築科絡みで、丹下、浅田、坂倉もリンクしていたと見なせるからだ。

[関連リンク]
◆過去の[古本夜話]の記事一覧はこちら