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古本夜話182 松本清張と木村毅『小説研究十六講』『私の文学回顧録』

加藤武雄が多くの代筆をしたとされる新潮社の「思想文芸講話叢書」の「十二講」や「十六講」という形式は、売れ行きに示されているように、読者から好評をもって迎えられたために、他社からも多くの類似した著作が刊行されたと思われる。

この読者からのヴィヴィッドな反応と、他社からの類書の刊行をふたつながらに体現している著者は木村毅である。まず後者の事実からいえば、木村は「思想文芸講話叢書」の『小説研究十六講』や共著『世界宗教十六講』を出し、その後『文芸六講』(春陽堂、大正十五年)、『大衆文学十六稿』(橘書店、昭和八年)を刊行している。

そのうちの『小説研究十六講』は恒文社、『大衆文学十六稿』は中公文庫で復刊され、中公文庫版には谷沢永一編「木村毅著作目録」が掲載され、木村のこれらの著作が出版社とタイトルを変え、戦前戦後を通じて繰り返し刊行され続けてきたことが指摘されている。それは大正時代の「思想文芸講話叢書」に象徴される啓蒙化と実用を兼ねた企画が長き年月にわたって有効だった出版状況を示している。

まさにそのような読者のひとりが松本清張であり、彼は一九八〇年の恒文社版『小説研究十六講』に「葉脈探求の人―木村毅氏と私―」という、木村と同書に対するオマージュ的一文を寄せている。清張のリアルタイムでの読書の記憶を引いてみる。

 「小説研究十六講」を買ったのは昭和二、三年ごろだったと思う。私の持っているのは十三版で大正十四年十二月発行である。初版がその年の一月だから、一年間に十三版を重ねた当時のベストセラーだ。私は高等小学校を出てすぐにある会社の給仕になっていたが、時間を見つけてはこれに読み耽った。たとえば銀行にお使いに行きそこで待たされている間もこれを開いた。自転車で使いに走りまわるのに、五百ページの本は少々重くて厄介だったが、これを読むのがそのときのただ一つの愉しみだった。
 それまで私は小説をよく読んでいるほうだったが、漫然とした読み方であった。小説を解剖し、整理し、理論づけ、多くの作品を博く引いて立証し、創作の方法や文章論を尽したこの本に、私は眼を洗われた心地となり、それからは、小説の読みかたが一変した。いうなれば分析的になった。

木村の『小説研究十六講』のみならず、新潮社の「思想文芸講話叢書」には松本清張のような少年読者が多くいたにちがいない。そして円本時代を迎え、彼らこそが改造社『現代日本文学全集』や春秋社の『世界大思想全集』などの読者となり、将来の作者や著者に向けての道を歩み出そうとしていたのではないだろうか。松本の回想はそのような独学者の思いに充ちている。また木村が円本のプランナーのひとりであったことは偶然ではない。木村の「序」にある「星雲の志に燃ゆる青少年達には(中略)小説の創作ということが共通の胸に抱かるる野心となり、憧憬となり、希望となり、一つのロマンチシズムとなっている」との言はそうした清張のような少年の思いに呼応し、それゆえにベストセラー化を促したのであろう。
現代日本文学全集  世界大思想全集

木村は同書を坪内逍遥『小説神髄』の後を継承した「組織的研究書」と称し、松本も同様に逍遥以来の「はじめて近代小説作法と小説鑑賞の理論書を得た」と記しているように、西洋小説を始めとする豊富な引用に合わせて、プロット、キャラクター、その背景と視点、書き方にまで言及し、所謂「小説の書き方」といった実用書の一面も備えていることもその特色である。松本は川端康成の『小説作法』も木村の一冊が下敷きだと述べ、また木村は阿部知二の著書や多くの類書も同様だと証言している。なお『小説作法』は松本の間違いで、『小説の構成』もしくは『小説の研究』だと思われる。
小説神髄

しかしこのような木村であっても、松本が芥川賞を受賞し、上京したばかりの昭和三十年に読者としてまったく面識もない木村を表敬訪問した頃から、三十五年秋に朝日新聞の「一冊の本」シリーズで、『小説研究十六講』を紹介した時期にかけて、どうも忘れ去られつつある存在だったようだ。それは木村の『私の文学回顧録』青蛙房)の記述にもうかがわれる。だが木村はこれらのことがきっかけとなって、同書にも「再生の思い」とあるように、恒文社における著作シリーズなどを始めとする復刊、新たな本の出版、そして自伝である最後の著作『私の文学回顧録』に至ったことになる

しかもそのような経緯の中で書かれた木村の自伝には思いがけないことも記され、それは加藤武雄に関してである。木村は少年時代に『中学世界』や『文章世界』の投書家だったが、加藤もまた同様であった。加藤は常に投稿が一等になり、全国の並いる文芸愛好投書少年の間では既成文壇の大家よりも有名な存在だった。その加藤こそが木村にとって、「私の文学的生涯には、他の誰れよりも密接な関係をもつに至る人物」であった。木村は加藤を通じて新潮社に出入りし、加藤が編集していた『文章倶楽部』に「文芸講話」を十年にわたって連載し、これが『小説研究十六講』のベースになっているのではないだろうか。

ともに「投書家上がり」である加藤との関係から、木村は加藤が代筆にあたって発揮したようなリテラシーと編集力、洋書から得た知識のリライトの才に基づく『小説研究十六講』を著した。そして円本時代を迎えての新潮社の『世界文学全集』の企画者にも至ったと考えられる。この「投書家上がり」について補足しておけば、『白樺』や『新思潮』といった学習院や東大を背景とするリトルマガジン出身者よりも、文芸投書雑誌『文章世界』などの投書家から成り上がった物書きを軽蔑して「投書家上がり」と呼んだようなのだ。

ちなみに木村は中学を出ておらず、独学して早稲田に入っているから、彼も投書家にして独学者でもあったことになる。その著書『小説研究十六講』に象徴的に示されているように、新潮社、加藤武雄と木村、「思想文芸講話叢書」、松本清張へとつながっていくラインは、近代出版業界が読者も含めて独学者たちによって支えられていたことを物語っている。それゆえに多様な夢が投影され、オリジナルな編集の才が発揮され、出版物の輝きも放たれていたのではないだろうか。

また水上勉『文壇放浪』新潮文庫)の中で、『大衆文学十六稿』の愛読者だったと語っている。とすれば、戦後の社会派推理小説も木村の二冊をベースとして成立したといえるのかもしれない。
文壇放浪

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