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古本夜話187 吉江喬松「百姓、土百姓」と新潮社『フィリップ全集』

和田伝編『名作選集日本田園文学』には吉江喬松の農民文芸運動の先駆的な一文「百姓、土百姓」が収録されている。これは『近代文明と芸術』(改造社、大正十三年)所収のものだが、ここでのテキストは白水社の『吉江喬松全集』第四巻掲載のものを使用する。

吉江は「百姓、土百姓」において、東京の夕方から夜にかけての混雑時の電車内で、「百姓め、土百姓め」という呪詛と罵倒の言葉をよく聞き、それはかつて大学の野球の応援の際にも発せられたことを思い出す。そして日本人が集合したり群衆と化したりした場合に、このような言葉が出てくることは何を意味するのかという問いから始めている。そこで吉江は字典の解釈を引き、「百姓」は支那からきた言葉だが、日本の現代語に翻訳すれば、第一に「民衆」、第二に「農民」にあたるのに、その両義的意味を持つ「百姓」を罵倒する言葉、侮辱を感じる言葉として平気で用いていることに異議を申し立てる。

現在であれば、この「百姓」の解釈に網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』ちくま学芸文庫)などで提起している、非農業民も含んだ多彩な生業を営む人々という視点を導入してみたい気になるが、吉江の一文が書かれたのは大正時代であるから、それは慎まなければならない。
日本の歴史をよみなおす

吉江の論に戻ると、現在の日本における大地主を除く自作農、小作農、及びそれを兼業する農民人口は全体で三千万人近く、日本内地の総人口の三分の二に近いと述べ、次のように続けている。

 この大多数の農人が現在の日本の文明に関係してゐる点は、総ての人のために黙々として終生働ひて、多量の米を作り出すことと、集合密集の場合に「百姓」といつて罵られ、侮辱せらるることである。しかもこの大多数は、「百姓」と罵らるることを耳にしても反抗もしようとはしない。一種の黙した、深いあきらめをもつて、その善良な日にやけた顔に、淋しい笑ひを浮べるだけである。(中略)
 自分等の大多数を形成してゐる職業、階級を軽侮し、その総称を嘲笑に用ひ、自分等だけが特権者であるごとき心理の持主たる人々の作り出して来る文明なぞこそは、呪詛の対象でなければならない、何故に軽侮と嘲笑と罵倒とを共通な語で現はそうとするならば、それ等の文明にこそその語勢を向けるべきではないか。

しかし従来の日本文芸はそれらを表現してこなかった。だからこそ農民は自らの直接の表現を持つべきであり、それが農民文芸のめざすところだと解釈してかまわないだろう。

この「百姓、土百姓」は「農民と文芸」の章の一の「農民生活と現代文芸」に続く二にあたり、その後の三の「大地の声」において、農民文芸のフランスにおける実践者としてのルイ・フィリップが取り上げられる。貧しい農夫の子として生まれ、フランスの黒い大地とそこに生きた人々の漂泊の声を彼の芸術ならしめたと称揚され、フィリップのような存在が日本の古い大地からも生まれることを願って、吉江の「農民と文芸」の章は閉じられている。

ここであらためて農民文芸会の成立が、大正十一年十二月に『種蒔く人』の小牧近江の提唱によるフィリップ記念講演会がきっかけであったことを想起させる。この会にフィリップと親交のあったフランス大使のクローデルが参加したと伝えられているが、実際には彼の詩が朗読されただけだったようだ。それはともかく、どうもこの「大地の声」がその時の吉江の講演内容であったと見なしていいだろう。「シャルル・ルイ・フィリップ死して十三年」という始まりは、その記念講演会がフィリップ十三回忌と兼ねていたことからすれば、それは符合している。『吉江喬松全集』第三巻所収の『仏蘭西文芸印象記』の中に、やはり「大地の声―シャルル・ルイ・フィリップ」という一編があるが、同題の講演はその要約と見なせるだろう。

これらの事実によって、昭和四年から翌年にかけて新潮社から刊行された『フィリップ全集』全三巻はフィリップ講演会、農民文芸会、加藤武雄、新潮社というラインでつながり、全集として結実したのではないだろうか。内容を確認してみると、第一巻の総解説にあたる「シャルル・ルイ・フィリップの芸術」は吉江によるもので、これは前述の「大地の声―シャルル・ルイ・フィリップ」とまったく同じである。ただ最後に「この『フィリップ全集』は、彼の諸作を悉く集めたるもの、彼フィリップの全容を完全に知ることの出来る唯一の集成である。訳者達はまたフィリップを深く愛する人々の集まりである。(後略)」という四行ほどが新たに加えられている。

訳は小牧近江が『小さな町』と『ビュビュ・ド・モンパルナス』、吉江が『シャルル・ブランシャアル』を担当し、他は堀口大學、神部孝、山内義雄などで、農民文芸会のメンバーは入っていないが、その事情は農民文芸会の分裂も関係しているかもしれない。『新潮社四十年』には『フィリップ全集』刊行の経緯と事情は何も記されていないけれど、一応は書影入りで、「我が国の文壇に、プロレタリア文学の種を蒔いた作家である。この夭折せる天才作家の全作をあつめた本集は、実に多くの熱心な読者を得、強い影響を当時の文壇に与へたものである」との注記が付せられている。実際にこの全集が刊行されたことで、フィリップの作品の様々な文庫化が促進され、昭和十年に出された岩波文庫版の淀野隆三訳『小さき町にて』は四万部売れたと伝えられている。
ビュビュ・ド・モンパルナス 『ビュビュ・ド・モンパルナス』(淀野隆三訳)

また戦後になってやはり全三巻の全集が白水社から出ているが、これは新潮社版をベースにした改訂版と見なせるだろう。近年になって、みすず書房からやはり戦後のゾラの『ナナ』の訳者でもある山田稔の新訳で『小さな町で』も刊行されているので、いずれ読んでみたいと思う。

ナナ(小田光雄訳)  小さな町で
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