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古本夜話196 井上勇『フランス・その後』とゾラ『壊滅』

前回ゾラの先駆的訳者として、飯田旗軒を紹介したが、彼に続く同じような訳者の一人でもある井上勇についても書いておこう。井上も大正時代におけるゾラの翻訳者として、『ナナ』『制作』『罪の渦』を刊行している。私の手元にある『制作』(上下)と『罪の渦』は、大正十五年の第百書房版だが、これらはいずれも大正十、十一年に聚英閣から出されたもので、『罪の渦』は『呪はれたる抱擁』の改題であり、この原題は『テレーズ・ラカン』に他ならない。

ナナ (小田光雄訳) 制作 (清水正和訳) ナテレーズ・ラカン (小林正訳)

また念のために篠沢秀夫の『立体フランス文学』(朝日出版社)の「翻訳文献」に目を通してみると、井上がゾラだけでなく、同時代にバルザックやスタンダールやフローベールも訳していて、フランス文学翻訳初期のメンバーの一人だともわかる。だが私たちの世代にとって、井上はフランス文学の翻訳者というよりも、創元推理文庫のヴァン・ダインやエラリー・クリーンの訳者の印象が強い。

あらためて井上勇を、『日本近代文学大事典』で引くと、ジャーナリスト、翻訳家とあり、明治三十四年東京生まれ、大正十二年東京外語英仏語部卒、同盟通信社外信部部長、パリ支局長、時事通信社取締役を歴任と記され、翻訳のみならず、ジャーナリストとしての確固たる軌跡が示されている。
日本近代文学大事典

井上がジャーナリストとして著作を何冊上梓しているのか確かめていないが、昭和十六年に鱒書房から出された『フランス・その後』を入手しているので、この本にふれてみたい。それは井上のジャーナリストとゾラの翻訳者の立場が交差し、成立したように思われるからである。同書は「ルーゴン=マッカール叢書」のクライマックスに位置する第十九巻『壊滅』(拙訳、論創社)を念頭において書かれたのではないだろうか。ちなみに『壊滅』は普仏戦争の敗北とプロシア軍によるパリ占領、それに続くパリ・コミューンを描いている。
壊滅

同じように井上の『フランス・その後』も、一九四〇年六月のドイツ軍によるパリ進攻に始まる、占領下のフランスの一年間に及ぶルポタージュである。フランス政府はパリを捨て、トゥール、さらにボルドーに移転し、後継首相となったペタン元帥はドイツに和を請い、休戦条約を結び、フランス本土の五分の三をドイツ軍の軍事占領下に置き、フランスがドイツに一日四億フランの占領費を払う決定をした。そしてフランス軍は武装解除され、百五十万人以上がドイツの捕虜となった。それに伴い、ペタン政府は首都を中央フランスのヴィシーに移した。ここで上下両院合同の国民議会が召集され、議会は圧倒的多数で、八十四歳の老元帥ペタンに全権を与え、第二帝政の崩壊から七十年にわたって続いた第三共和政に終止符が打たれ、「自由・平等・友愛」に代わって、「労働・家族・国家」を標語とする国民革命の時代が始まったのである。

その一方で、ド・ゴールがロンドンから抵抗を訴えていたが、まだ何の反応も引き起こしていなかった。井上はトゥール、ボルドー、ヴィシーとさまよっていくフランス政府を追いかけ、休戦条約成立以降の一年間を描いている。その生々しさと臨場感において、『フランス・その後』は比類のない同時代ルポタージュとなっていて、井上も「自序」で、「成功したかどうかは自分でも判らない。ただ新『フランス国家』誕生一ヶ年のデイタを集録した書物としては、世界で最初の本かも知れないといふ、かすかな己惚れだけはある」と書いている。

井上は冒頭で、フランス政府のボルドーへの移転を、一八七〇年にも起きた事実だと述べているが、これは普仏戦争のことを意味し、ゾラの『壊滅』を意識していることを物語っていよう。そしてフランス人だけで八百万人に及ぶ避難民の悲惨な流れ、武装解除の実態、政府の内部闘争、休戦条約への経緯、第三共和制の葬送、新フランスの誕生、ドイツとフランスの関係の推移、食糧危機などがアクチュアルに語られていく。それらに井上が撮ったと思われる占領下のフランスの写真が挿入され、また「崩壊フランスの姿」と題する講演の収録もあり、ヴィシーの現状が話体でリアルに報告されている。だから井上の「己惚れ」に終わることのない、日本人による戦後の貴重な現代史の目撃証言といえるだろう。そこで井上が最も伝えたかったのは、自らがいう「よき日のフランス」、つまり第三共和制への追悼であろう。それが「情熱を失つた制度」と化していたにしても。彼は書いている。

 誰一人、第三共和制―犯した過ちは過ちとして、貧しきものに教育を与へ、産なきものに生活の希望を与へ、世界が羨望する大植民帝国を築き得、一九一四―一九一八の輝かしい戦勝を齎し得た第三共和制、そのために幾多同胞の血を流して戦ひとつたフランス大革命に美しい伝統―これに対して、哀悼の辞を敢えて述べ得た、只一人の議員もない淋しさだつた。

このようにフランスの占領下の実態を記した井上勇は、敗戦によってアメリカに占領された戦後の日本社会をどのように見たであろうか。あるいはそれに背を向けるように、ミステリーの翻訳に携わることになったのであろうか。

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