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古本夜話198 『居酒屋』の訳者関義と『展覧会の絵』

論創社版「ルーゴン=マッカール叢書」に『ナナ』の新訳を加えることが決まり、その参考のために、戦前だけでなく、戦後も含めて『ナナ』の既訳状況を調べたことがあった。その中に昭和三十年に青木書店から刊行された関義・安東次男訳も見出されたが、前回の井上勇訳と同様に見つからず、入手できなかった。この二人の訳者は昭和三十七年にも『居酒屋』を同じ青木書店から出していて、こちらも同様だった。安東のことはともかく、関義なる訳者は文学事典などにも掲載されておらず、どのような人物なのか気になっていた。
ナナ

ところがその後、古本屋で立て続けに関の訳書と著書に出会い、彼のことが判明したので、それを書いておこう。まずは旺文社文庫の関単独訳『居酒屋』を見つけた。それは昭和四十二年の「図書館用非売品」のハードカバー全二巻で、訳者名に関義(せきただし)とルビがふられていて、その読み方がわかった。そして「訳者紹介」に「仏文学者。一九〇六年生まれ。アテネ・フランセ卒。ラテン文学専攻」とあり、訳書にルイ・アラゴン『お屋敷町』やシャルル・ブリニエの『醜女の日記』などが挙げられ、後者はかつて新潮文庫に入っていたことを思い出したりもした。さらに下巻の「あとがき」には、「かつてわたしのギリシャ語の師であったきだ・みのる」との言が記されていて、関がアテネ・フランセでの きだの教え子であったと推測できた。
醜女の日記

『居酒屋』は「ルーゴン=マッカール叢書」の中でも映画のヒットもあってか、最も多く訳され、十人以上の訳者がいるが、関訳は明らかに会話に工夫が見られ、ついつい読んでしまった。そしてヒロインのジェルヴェーズの三人の子供たちが『居酒屋』を背景にして成長し、長男のクロードが『制作』次男のエチエンヌが『ジェルミナール』、娘のナナが『ナナ』の主人公として出現する前座の位置を占めていると、あらためて実感したのである。

居酒屋 (古賀照一訳) 制作 ジェルミナール

それからしばらくして、またしても関義の名前に出会った。それは古本屋の棚に『展覧会の絵』と題された箱入りの本があり、著者名が関義となっていたからだ。この本には記憶があった。昭和四十年代半ばだったと思うが、どこの古本屋にも『血と薔薇』が特価本として平積みされていて、その同じ時期に『展覧会の絵』も多くの古本屋で、やはり特価本として売られていた。
 血と薔薇  

初めてその奥付を見てみると、昭和四十六年発行で、製作は前衛社、発売は神無書房、発行者は常住郷太郎、装丁は山本美智代で、限定八百部、千二百円との記載があった。確か山本美智代は東大全共闘山本義隆の夫人だったはずだ。関義に関してはゾラの翻訳などの紹介はないが、東京生まれ、アテネ・フランセ卒の経歴から同一人物と見なしてよく、戦時中にインドシナへ逃避し、戦後に日本に帰還し、『文芸日本』や『円卓』の同人で、住所は岐阜の高山市と記されていた。

この『展覧会の絵』は十五編からなる短編集で、前述の二つの同人誌に小台斉というペンネームで発表したものだという。これらの作品について、関は「あとがき」で、「気まぐれ、まがいものの意さえふくむfantaisie に近い」と述べ、次のように書いている。

 それを今、読み返してみ、いかにも僕が軽佻浮薄の徒であるかを感じる。ぼくが若年時、多大の影響をこうむったモデルニスムには、とっぴな表現、あるいはハイカラを競い合うとか、大そう現象的なところがあったので、こういった一面が強調されれば、勢い軽佻浮薄はまぬがれ得ないのだろう。これがぼくの作品にはどっぷりと請いのである。

このニュアンスを伝えるためには、アプレイウス『黄金のろば』にヒントを得たと思われる「他人の椅子」を紹介するのが最適だろうが、これは長く入り組んでいるので、「軽佻浮薄」を強調しているように見える「実証的犬魂説」を取り上げることにする。

詩人の吉奈のところに、かつての友人で彫刻家の銭一良(ゼミ・イチリョウ)が電話をかけてくる。彼は芸術家たちが住む城砦町に住んでいるらしい。再び電話がかかり、それは犬の屠殺場を知らないか、「犬のタマシイ」がほしいという問い合わせだった。永久運動の研究に打ちこみ、その仕掛けをマヌキャンにつけたのだが、「タマシイの問題」が解決できない。だから「犬のタマシイ」を注入したい。そのマヌキャンは女性で、プラスチック製だが、優雅な美人にして恥毛もつき、体臭、体温も完備している。そこでデカルトの思惟の問題、犬魂説や動物機械論が持ち出され、「永久に傷まない肉体の人間化」が語られる。それから半年ほど経って、吉奈は次のような新聞記事を見つける。

 銭氏は十一月三日、朝方、同棲の美人(年齢不詳)に咽喉を噛み切られ、出血多量のため死亡。痴話喧嘩のはてか?(中略)部屋のなかにはハダカの美人が口を血だらけにして歩きまわっていた。(中略)銭さんと同棲ちゅうの美人はその場でそのまま逮捕されたが、警察ではいっさい黙秘権を行使、ひと言もいわないので、原因その他不明である(後略)。

この短編はコントに接近しているといってもいいかもしれない。まさに『展覧会の絵』は「軽佻浮薄」を前面に押し出すことによって、翻訳の『居酒屋』とかけ離れたものになってしまったために、関はゾラの訳者であることをあえて伏せているのだろう。それはまた関がゾラの訳者であっても、本質的にはモダニストだった事実を告げていよう。

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