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古本夜話201 春秋社と文藝春秋社出版部

前回の庄野誠一に関連することもあり、文藝春秋社をめぐる一編を加えておく。本連載180で、文藝春秋社出版部なる名称が菊地寛によって、春陽堂から独立した小峰八郎に貸与されたものだと既述した。またそこで、この頃は文藝春秋社出版部の本に出会わないとも記しておいた。

ところがその後、古本屋の店頭で、ほるぷ出版の日本近代文学館復刻の芥川龍之介『侏儒の言葉』が目に入り、何気なしに手にとったところ、その奥付の発行所が文藝春秋社出版部、発行人が小峰八郎であることに気づいた。それで以前に浜松の時代舎で、芥川の『侏儒の言葉』『湖南の扇』の二冊を収録した「春秋社版」箱入りセットを買ったことを思い出した。
[f:id:OdaMitsuo:20120509154849j:image:h120](箱) [f:id:OdaMitsuo:20120509155606j:image:h120] (ほるぷ出版 復刻)


帰って探してみると、その箱入りセットが出てきて中身を確かめた。すると箱には「春秋社発行」とあるにもかかわらず、二冊とも文藝春秋社出版部と記載されていた。つまり箱と中身が異なる組み合わせになっていたのである。このような組み合わせを本連載194で報告したばかりだ。

『侏儒の言葉』と同様に『湖南の扇』もほるぷ出版によって復刻されている。いずれも四六判で、昭和二年に初版が芥川の死をはさんで刊行され、小穴隆一の鮮やかな装丁が印象的である。しかし春秋社の箱に入った二冊は小B6判の小型並製で、もはや小穴の装丁の片鱗もとどめておらず、昭和五年十二月に同時に刊行されていることが、奥付の発行日からわかる。これらの事情は何を物語っているのだろうか。
[f:id:OdaMitsuo:20120509160635j:image:h120] (ほるぷ出版 復刻)

おそらく想像するに、文藝春秋社出版部は昭和二年に刊行した芥川の二冊を縮刷版として、同五年に出版したが、売れ行きが芳しくなかったことと、同出版部が円本後の出版不況の中で経営的に苦しかったことが相乗し、春秋社に在庫ごと販売権を売却したことから、このような箱と中身の版元の異なる事態が生じたのではないだろうか。この時期の春秋社は本連載でも既述してきたように、松柏館や日月社も擁し、書店部門も抱えていたと推測できるし、この売却はそれらと関係していると考えられる。

小峰八郎の文藝春秋社出版部については『文藝春秋三十五年史稿』の「年譜」の大正十五年のところでふれられているだけで、同書にはその後の動向に関する明確な記述はない。しかし二冊の縮刷版の巻末図書目録には芥川の著作の他に、菊池寛、久米正雄、山本有三、佐佐木茂索、などの長編小説や短編集が並び、創業から五年間で『文藝春秋』と関係の深い著者たちを中心に少なくとも三十冊近くは刊行していると思われる。

文藝春秋三十五年史稿

そしてその日本橋区小田原町の住所からして、文藝春秋社は麹町区内幸町の大阪ビル内にあったわけだから、文藝春秋社出版部は別のところで小峰によって営まれていたことになる。しかし春秋社への在庫の売却を機にして、文藝春秋社出版部は整理され、文藝春秋社へと吸収される過程をたどったのではないだろうか。大正十二年に菊池寛の個人経営として始まった文藝春秋社も、昭和三年に株式会社へと移行し、薬品その他の通信販売の代理部、麻雀牌の製造販売の麻雀部と同様に、出版部もまた収支損益を明らかにする必要に迫られていったことと密接に関係しているのだろう。『文藝春秋三十五年史稿』はそのことを遠回しに述べている。

 これより先き「文藝春秋社出版部」という名称を、社外のある個人に許した等のことと同じく、代理部といい、麻雀部といい、経理上明朗を欠く点が生じ後々に禍根を残すことになつた。

これ以上文藝春秋社出版部に関する具体的な言及はないが、昭和六年に起きた、編集部を中心とする広告部や経理部を含んだ社内の根本的な整理と改革を経て、出版部も解体され、文藝春秋社内へと吸収されたと見ていいだろう。

たまたま昭和七年に刊行された兼常清佐の『音楽概論』が手元にある。これは全二十四巻が出された「音楽講座」の第一篇であるが、発行所は内幸町大阪ビルの文藝春秋社で、編輯兼発行人は同所の廣田義夫となっていて、もはや出版部も小峰の名前も消えてしまっている。それゆえにこの時期に出版部が整理されたと考えて間違いないと思われる。

しかし明らかにされていない、このような出版部の整理と消滅は、その後の文藝春秋社の書籍出版に何らかの影響と余波を及ぼしたようで、『文藝春秋三十五年史稿』収録の「出版総目録」は昭和十五年からの刊行物から始まっていて、それ以前の書籍についてはリストアップされていない。昭和七年頃から十四年にかけての文藝春秋の書籍は、過渡期の出版物に属しているのであろうか。また前回ふれた庄野誠一はこの時期に出版部へ移っていたはずだ。

そればかりか、ほぼ三十年後に出された『文藝春秋七十年史《本篇》』(平成三年)において、続刊の『文藝春秋七十年史《資料篇》』(平成六年)に「『図書』総目録」の収録が予告されていたにもかかわらず、その内容は「『文藝春秋』総目録」だけで終わってしまい、「『図書』総目録」は実現しなかったのである。

だがそれでも『文藝春秋七十年史《本篇》』には、『文藝春秋三十五年史稿』にはなかった小峰に関する記述が見られる。それによれば、小峰は春陽堂に長くいて、菊池の第一作を編集担当したことで、菊池の信任を得て、文藝春秋社出版部を許され、「僕が出版をやる訳ではないが名称をゆるした以上、監督もするし責任を負う」との菊池の言、昭和三年から八年にかけて、小峰を『文藝春秋』の発行名義人にすえていたことなどが記されている。やはり出版部も菊池のダミー、別働隊であったと判断してもかまわないであろう。おそらくそのようにして、馬海松の『モダン日本』、田中直樹の文化公論社における『文学界』や『犯罪公論』も成立したのではないだろうか。

それらのことと、文藝春秋社が刊行した書籍の全貌はまだ明らかにされていない。

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