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その魅惑的なタイトルゆえに、「山岸涼子スペシャルセレクション」4の『甕のぞきの色』を購入してしまった。ただこの作品は記憶の片隅に残っていたので、初出を見てみると、一九九二年十一月から翌年の二月まで秋田書店の『別冊プリンセス』に連載されたものである。だから確認していないが、すでに何度も彼女の作品集に収録され、それを読んでいるはずだ。
しかしあらためて読み、この中編がオウム真理教事件以前の九〇年代初めに書かれたこと、そしてここに提出された物語の主題と様々なファクターが、色褪せ古びてしまうどころか、逆に現在にあって、さらに生々しく迫ってくることに新たな驚きさえ感じた。それは新しい選集を編むに際して、それを繰り返しタイトルとした山岸にしても同様だったのではないだろうか。またそこには山岸の『日出処の天子』などの物語につながる秘儀すらもこめられているようにも思えた。本連載で山岸の作品は『青青の時代』に続く二作目になるが、取り上げるしかない。『甕のぞきの色』の物語をたどってみる。
横田郁夫は二十六歳の編集者で、胃の具合が悪いこともあり、婚約者の美奈子の勧めにより、医大の人間ドックに入ることになり、その後再検査通知が届き、医大に向かった。そこで彼は見覚えのある水色のドレスを身につけた美奈子がエレベーターに乗るのを目撃し、続けて担当医が彼女に横田が末期癌だと告げているのを立ち聞きしてしまう。彼はショックを受けながらも会社に戻り、その会議の席上で、癌も治る奇跡の水の話を耳にする。それは多くの体験者がいて、S県M郡にある泉深館(いずみかん)での療法で、そのシンボル的存在は十八歳の鈴木比売子(ひめこ)だった。この名前が『青青の時代』の卑弥呼と相通じていることはいうまでもないだろう。
現代医学から見放されたと考える横田は、会社に辞表を出し、美奈子の止めるのも聞かず、泉深館をめざし、その途中で犬を連れた子供に出会い、場所を尋ねながら痛みで倒れてしまうが、気がつくと布団の中に寝かされていた。そこは泉深館だとわかり、彼はここしか頼るところがない、どんなことにも耐えるので、「比売子さま」に会わせて下さいと懇願するに至る。「この時、僕は通常の世界を踏み越えたのだ」。
そして横田は比売子に対面するが、それは道を尋ねた、せいぜい中学生ぐらいの男の子と同一人物で、十八歳の女性のように見えなかった。だが話からして、彼女はチャクラが全開し、訪れてきた人々の心がかなり読めるようで、「水」を飲まなければならないといった。その何の変哲もないただの「水」の色が「青く澄んでいます」と側近は語る。それに対して、横田は思う。
そういわれれば、そんな気がしないでもなかった。
ふと“甕のぞき”という言葉が頭に浮かんだ。
水をいっぱいくんだ大甕をのぞくと、水が幽(かす)かに蒼み帯びて見える。
そのぐらい幽かな青色をひとはけだけかけた藍染めの色を“甕のぞきの色”といったのだ。
なんと古人(いにしえびと)は繊細な感覚を持っていたことか。有るか無きかの色に名をつけるとは……
かくして泉深館での横田の生活が始まっていく。病院と異なり、そこには多くの不治の病の人々がいるにもかかわらず、比売子を中心にして明るく、館長の女性が彼女の母親で、側近の男性は治癒したかつての患者だった。横田は「水」を飲み始めた三日目に痛みがぶり返し、それを比売子は「水」の効き目が出てきたといい、彼女の「手かざし」を受ける。すると痛みは消えてしまった。
しかしそこに美奈子が訪れ、まだ初期だから手術をと主張する。それを拒絶する横田に「あの合理的なあなたはどこにいってしまったの」と彼女は問い、そのまま泉深館に住むことになり、「水」を飲むことは「治療」といえず、「一種の宗教」だという。そして「水」の源泉たる庭のわき水の、医大での分析を主張し、出ていく。比売子は「長い間現代医学が見落としていたある物を、きっとこの“水”から見つけることができるんだ」と話す。そのわき水は雑木林の中で比売子が子どもの頃見つけた小さな水溜りを指で突いたとこに噴き出したもので、その時「水」によって、額のところにある彼女の「第三の眼」が開いたのではないか、及びそれと松果体の関係を、横田は推測する。
その一方で、初めて訪れてきた女性がいきなり「水」を飲み、死んでしまったことから、警察の介入、薬事法との問題、半数の患者たちの離反が起きる。そこに美奈子によって医大の綿密な分析である「あの“水”がただの水」だという証明が届けられ、比売子の「その“水”が何らかの新薬」だとの確信は否定されてしまう。それに対して比売子は「違う! 見つけられないだけだ! それが名もない未知の成分だから」と反論する。
さらに医大からリークされたマスコミが押し寄せ、比売子も横田も知らされていなかった、ただの水を一万円で売っていた薬事法違反、営利目的の霊感商法などを暴きたて、泉深館は崩壊へと追いやられてしまった。しかしあらためて横田は医大で検査を受け、癌が消えてしまっている事実を知る。医者は初期症状だったので誤診したのではないか、決して「水」のせいで治ったのではないという。
だが横田は末期癌だったはずだと思い、美奈子にそれを確かめると、彼が見た水色のストライプのワンピース姿は自分ではなく、私の持っている同じ色と柄のものはノースリーブの夏ドレスで、秋風が吹いたあの時期に着るはずはないという返事が戻ってきた。
横田は自問する。あれは美奈子ではなく、僕は初期癌だったのだろうか。もし最初からそれを知っていれば、泉深館に駆けこんだかわからないし、今の僕はどうなっていたのだろうかと。それから二年近くが経ち、側近の男性と東京で偶然に会い、比売子が何度も「水」を分析に出したが、何も証明されず、泉深館の再建も実現しなかったと彼は語るのだった。横田は彼を介して、比売子と二年ぶりに会うことになった。しかし現われた彼女は別人のように太り、露出の多い服装で、煙草をふかし、本名の鈴木明美を名乗り、今度結婚するのだという。横田の「比売子さまのおかげです。僕の癌は完治しました」という言葉は無視されてしまった。それでも彼女は横田が初恋の人で、結婚相手は少し横田に似ていると告白し、横田からも美奈子との仲は二年前に終わったことを聞き出し、地震であの「水」も出なくなってしまったと伝えるのだった。横田のほうは「心身ともに堰を切ったように成長した彼女を見ると、それは喜ぶべきことのようだ」と思う。
ここにこの物語の核心が潜んでいる。横田は末期癌の痛みの中で、「子供」のような比売子に出会い、泉深館へと誘われる。泉深館での比売子は十八歳であるにもかかわらず、「男の子」か「少年」のように短髪にして、ボーイッシュな服装で、スーツにネクタイ姿、上下のスポーツウェアやセーターに半ズボン姿で現れ、横田に「手かざし」する時に至って、初めてミニスカート姿の少女のように顕現している。そのような比売子について、彼女は「性の分割」以前の「子供」のようであり続けることによって、松果体からホルモンを分泌させることなく、「第三の眼」の効力を発揮しているのではないかと横田は考えている。
しかし美奈子は横田にいう。「見かけは男の子でも気持ちはしっかり女の子よ。だって彼女、あなたに気があるもの。フィアンセと聞いてあたしを睨んだわ」と。ここにすでに比売子と「水」と泉深館の三位一体の崩壊の予兆が告知され、山岸による比売子の姿の意図的な「手かざし」場面の少女的描写は、それを象徴しているのだろう。
横田は思う。迫りくる死に恐怖し、比売子と「水」と泉深館を信じた。そのシンボル比売子は「水」を信じる鍵であり、「生きたい」という無意識のパワーを全開させた。その彼女につきつけられた「ただの水」だとの分析表について、彼は考える。
彼女の持つ無意識のパワーを意識でしか理解できない者の暴力だった。
分析された「無意識」は単なる「意識」でしかない。
その時「無意識」は“無”意識ゆえにもっているパワーを失うことになるのだ。
そして横田、いや山岸はというべきか、奇跡の水として世界的に名高く、多くの難病を癒し、その奇跡は今でも続いている「ルルドの泉」も「ただの良質な水にすぎない」との分析結果を挙げ、「しかし人々はその水に無意識のパワーを宿す」と述べ、次のような言葉でこの作品を終えている。ユイスマンスの『ルルドの群集』にも言及したいが、それは慎もう。
大甕一杯の水にほの見える甕のぞきの色も甕から汲み出してみればただの無色にすぎない。
しかし人の眼はたしかに無色に色を見るのだから……
人間は幻想によってしか生きられないと語っているようにも思える。このように私たちはここに、水と青がもたらす奥深いひとつの物語を得たのである。
念のために『日本国語大辞典』を引くと、「瓶覗」、「淡い藍色」と記されていた。これは戦前の平凡社の『大辞典』の定義とほぼ同じである。山岸による秀逸な、しかも物語を立ち上がらせてしまう「甕のぞきの色」という言葉の由来と出典は、何によっているのか知りたいが、あえて秘めたままにしておきたいとも思う。