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古本夜話207 新潮社、叢文閣、『有島武郎著作集』

前回有島武郎の個人雑誌『泉』をめぐる取次正味についてふれたが、この問題に関する発言は、叢文閣の足立素一ならではのもので、他の出版者による同時代の正味に関する言及を見ていない。しかしあのように取次における高正味にこだわった、特異な性格とされる足助にしても、死に至る数年前には出版経営が窮地に陥っていたようだ。

足助は叢文閣という小出版社の立場にあったし、それほど長い出版生活を送ったわけではないにもかかわらず、死後の昭和八年には夫人の足助たつによって、その創作、遺稿、手紙、年譜、友人たちの回想などを収録した『足助素一集』(復刻湖北社)が刊行されている。これは八百ページに及ぶ菊判の大冊で、小出版者としてこのように追悼、顕彰された例は少ないと思われる。

このことと有島武郎との関係もあって、足助と叢文閣は出版史だけでなく、文学史にもその名前がとどめられ、『日本近代文学大事典』にも立項されている。また足助が札幌で営んでいた貸本屋の蔵書目録も『足助素一集』に掲載され、明治末期から大正期にかけての貴重な独特の書物空間をしのばせていたが、それについても近年 藤島隆の『貸本屋独立社とその系譜』(北海道出版企画センター)のような研究も出現している。

日本近代文学大事典 貸本屋独立社とその系譜

だが叢文閣の全出版物目録は編まれてこなかったし、それらの編集や出版の経緯や事情は明らかになっていないと考えるべきだろう。もちろん『足助素一集』に昭和六年の「叢文閣出版図書目録」も入っているが、大半がロシアマルクス主義文献の翻訳で、有島と併走した出版者である叢文閣のイメージと異なっているといえよう。つまり有島絡みの出版が前期であるとすれば、この目録は後期の姿を示しているように思える。そこでまずはその前期の叢文閣をトレースしてみよう。

「足助素一年譜」にあるように、足助は明治十一年岡山県に生まれ、同志社中学を経て、同三十二年札幌農学校予科に入学し、先輩の有島武郎などと親交を得て、キリスト教へ接近する。森林科を卒業後、山梨県の林政調査などに携わった後、俸給生活と縁を切り、明治四十一年貸本屋独立社を開業し、大正三年上京し、有島の命名による焼芋屋のイポメ屋を営み、同七年に叢文閣を創業する。これが簡略な足助の叢文閣へ至るプロセスである。

その一方で、有島は妻と父を失ったことで、生涯の転機を迎え、「死と其の前後」「カインの末裔」や「惜しみなく愛は奪ふ」によって注目を浴び、新潮社からの継続的な著作の出版の申し出を受け、『有島武郎著作集』第一輯を刊行し、翌七年には第五輯まで出されていた。ところがである。佐藤義亮は「出版おもひ出話」(『新潮社四十年』所収)において、一章を「『有島武郎著作集』のいきさつ」に当てている。佐藤の証言によれば、有島の高い教養とその出自、「大きなスケールと新鮮で豪華な技巧は、非常な魅力」で、作品集の出版を申しこんだところ、有島も感激し快諾してくれた。それには訳があって、有島は洛陽堂や春陽堂に著作集の出版を頼んだのだが、断わられたり、返事がなかったので、新潮社の申し出をとても喜び、自分の著作は売れても売れなくても、必ず出すと固く約束したのである。なお佐藤はそのふたつの出版社名を「×××」で示しているが、ここではそこに記された住所から判断し、実名で記した。
そして佐藤は次のように述べている。

 『有島武郎著作集』と名づけ、第一編『死』(大正六年十月)をはじめ、第二編『宣告』、第三編『カインの末裔』以下、隔月一冊ぐらゐ出して行つた。非常の好評、みな忽ち何十版といふ有様だつた。然るに七年の六月に、有島氏の友人某氏が出版を始めることになつたから著作集を譲つてくれといふ申出でに接した。そこで私が有島に会つて、新潮社に何か不備な点があるかと聞くと、何も無い。只友人の為めに枉げて承諾を願ふばかりだと言はれる。(後略)

さらに有島は手紙でも懇願してきたので、「友人に強要され非常に困つてゐる事情」を察し、佐藤は社員たちの反対をなだめ、出版権を譲ってしまったとも述べている。足助と書かず、「有島氏の友人其氏」との表記に示されているように、様々な確執が三者の間に引き起こされたにちがいないし、このような綺麗事ですんだはずもないが、とにかく叢文閣に出版権は移り、大正七年の第六輯『生れ出る悩み』から、同十二年の第十六輯『ドモ又の死』までが刊行されたことになる。そのうちの第八、九輯『或女』はほるぷ出版から復刻されているので、容易に見ることができる。

生れ出る悩み

有島の死後、足助は『有島武郎全集』刊行を発表し、資料収集に励み、大正十三年から翌年にかけて、全十二巻を完成させる。しかし大正十三年の足助の「年譜」にあるように、「有島武郎著作出版に関し、武郎の遺族後見者の処置を憤慨し、六月二十八日有島武郎の著作物一切の出版権を抛棄し紙型を贈与し、全集のみは刊行終了後同様の処置に出る旨を諸新聞に発表す」という事態に至るのである。

これらの事情についての詳細をつかんでいないが、昭和四年の新潮社からの『有島武郎全集』全十巻出版の運びとなる。そのことに関して、佐藤は「大正十四年になつて、その後外から出た十一巻が、みな戻つてきて新潮社の出版となつた。面白いものだと思つてゐる」と述べているが、手元にある新潮社版『有島武郎全集』第一巻にはそれらのことは何も記されていない。
有島武郎全集 第三巻 (昭和四年新潮社版『有島武郎全集』第三巻)新潮日本文学 9 (『新潮日本文学』9)

その後の新潮社にとって、有島の著作はロングセラーとなり、売上に寄与したと思われる。だが出版物の柱ともいうべき有島の著作を失った叢文閣は、前述したように、ロシアマルクス主義出版に向かう。そして昭和二年の「年譜」に記された「事業経営極度の困難に陥り」、足助は体調を崩し、舌癌を宣告され、五年に亡くなっている。

これらの事実は叢文閣、足助、有島が三位一体であることによって成立し、出版社としての存在が保たれていたことを物語っている。それゆえに有島を死で失い、さらにそれが原因で著作も手放した時、叢文閣の凋落は宿命づけられていたといえよう。

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