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中村珍の『羣青』を取り上げなければとずっと思っていたけれども、まだ下巻が出ていないこともあって、先延ばししてきた。その出版事情を記せば、上巻が二〇一〇年三月、中巻が一一年二月に出ているので、この刊行ペースから考えて、下巻が近々出されるのではないかと待っていたからだ。その下巻が五月になってようやく刊行され、この上中下巻一五〇〇ページ近くに及ぶ長編がついに完結したことになる。
下巻に至るまでの『羣青』の流れを書いておく。
上巻は四七七ページ、中巻は五〇三ページに及ぶボリュームの長い物語で、千ページ近くを経た中巻が終わっても、ストーリーの全体と物語の行方が見えてきたとはいえず、多くの秘められた謎がつきまとっている印象が強い。いくつかの例を挙げてみる。
タイトルの「羣青」の「羣」は漢和辞典などで確かめると、「群」の正字で、あざやかな藍色を示す「群青」と同義だとわかるが、中巻まで読んでいっても、どうして「羣青」のタイトルが採用されたのかは不明のままである。それにまたヒロインたちの名前すらも明確に告げておらず、曖昧な状態の中で物語が進んできている。あるいは固有名が特定されていないことこそ、この物語が提出している意味なのかもしれないが。
さらに作者の中村珍だが、先行する作品として短編集『ちんまん』(日本文芸社、〇九年)に目を通しているにしても、それらの短編からはほとんど想像できない大長編といっていい『羣青』へ突然ジャンプしていく回路がたどれない。しかも上巻裏カバーのキャッチコピーによれば、この連載開始時、中村は「弱冠22歳であった」というのだ。これらの事柄ゆえに、すべての伏せられた謎が下巻の大団円の場面において、明らかにされるのではないかという予感にもとらわれていたからだ。
これらが上巻の読後感だったが、今回完結を見て謎が解けたり、予想が異なっていたりする場面に立ち会うことができた。上巻における物語の始まりの中に、すべてが散種されていたことにも気づいた。その意味において、大長編ゆえにすべてに言及できない事情もあるし、ここでは『羣青』の長いイントロダクションにして、物語の凝縮したコアが秘められている上巻だけに限って記しておくことにしよう。
冒頭の一ページの上のふたつのコマで、別々に携帯電話を持つ眼鏡をかけた黒髪の女と、公衆電話の中にいる金髪の女の二人が描かれ、下のひとつのコマで、彼女たちがお互いに話しているのだとわかる。二人とも髪は長い。後者の言い方に従えば、前者は「あーた」、後者は「あーし」となる。前者は後者を「あんた」と呼んでいるが、ここでは金髪の女の呼称を使用する。電話で話されているのは「あーた」の夫を「あーし」がうまく殺したかということだった。
そして第1話の幕開けとなり、BMWに乗った彼女たちが夜の首都高速を走っていく場面がプレ逃避行のように描かれ、途中でヒッチハイカーのギャルを拾ったものの、二人はホテルに宿泊する。
「あーた」がギャルに一昨日見たサスペンスのことを語る。
「三十路手前のレズビアンが出て来たの。
レズビアンには10年以上ずっと思い続けた大好きな女がいて……その女っていうのは、夫の物凄い暴力や浮気性に悩む、同い年の人妻で、酷い家庭生活に疲れきった人妻は死んじゃおうかと思い詰めるんだけど、そんな時そのレズが夫を殺してくれるの。
ムリして男を床に誘って、処女を捨てて、……レズビアンなのに男とセックスして、何もかも捨てた果ては、殺人犯。
殺しの数日前……、レズは好きな女を一晩だけとっても大事そうに抱いて、…言ったわ……「大丈夫だから」って…―」
この話に対して、一昨日は選挙特番で、サスペンスはなかったとギャルは応じるのだ。これから繰り返し語られるであろう「あーし」による「あーた」の夫殺しの事情とアウトラインが、ここに提出されたことになる。
そのような殺人とパラレルワールドのように、「あーし」と「あーた」の名門女子高時代が物語のルーツとして挿入されている。「あーし」はこの頃からレズビアンとして知られ、「あーた」にあこがれ、その「あーた」は陸上部に属し、インターハイで2位となるほど足が速かった。しかし「あーし」が「お嬢様」であることに対し、「あーた」は「犬小屋みたいな家」に住み、「ブタみたいな親父」を持っていたが、足が速かったので「名門のお嬢様学校」にスカウトされ、学費は全額免除という立場に置かれていた。二人はキーワードのように使われる「理解と差別」の関係にあり、「あーた」は足の故障とスパイクの万引き発覚などで奨学金が打ち切られ、退学するしかなくなるが、「あーし」は破格の金銭援助を申し出る。「そこらの男に体売って生きてく」よりも、「名門学校出てマシな企業に入って玉の輿にでも乗るんだね」。そして二人は孤立しながらも高校生活を終える。そして「あーた」はそれを実現させたのだが、物語の前史としての「玉の輿」の詳細はまだ明らかにされておらず、冒頭で伝えられた夫殺しに至る「あーた」の十年近い生活は、ほぼ空白のままだといっていいだろう。
ホテルで「あーた」は「あーし」に阿弥陀籤を示し、「どこに行こうかと思って悩んだんだけれど、私にはもうわからないから、選んでいいわよ」という。しかしこれもまたあのギャルに見出されるのだが、選択肢のすべてが「行き止まり」になっている阿弥陀籤だったのだ。それは「あーし」と「あーた」のこれからの逃避行を暗示しているようで、『羣青』の物語もそのような色彩に覆われ、展開されていくのである。
もちろんこの『羣青』にも先行する様々な作品や物語の投影を見ることができる。二人の女を共犯とする夫殺しは桐野夏生の『OUT』、殺人の後の逃避行は岡崎京子の『エンド・オブ・ザ・ワールド』、二人の女性のロードサイドムービーとしてのリドリー・スコット監督の『テルマ&ルイーズ』などが浮かび上がってくる。
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それに本連載19のさそうあきらの『さよなら群青』で、「群青」が海の彼方と黄泉の世界のメタファーであることを示し、また同14と15のやまじえびねの『インディゴ・ブルー』『青痣』と、同22の志村貴子の『青い花』において、レズビアンや女子高における同性愛のゆらめきを論じてきてもいる。
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だが中村珍の『羣青』は、それらのコミックとは一線を画する強度な物語の異物的感触を有していて、何ゆえの殺人と逃避行なのか、二人の関係の必然性とは何なのか、それらが何に起因しているのかは下巻まで読み進めていかないと了解できない仕掛けになっている。そして深読みするならば、近代家族を超えるジェンダーレスな現代家族、もしくは必然的に社会と逆立してしまう疑似家族の問題が浮かび上がってくるようにも思える。中村が下巻の「あとがき」で「羣」について、「重く圧し掛かる“君”を華奢な足で支える」姿だと語っているのは、そのことを示唆しているのではないだろうか。