前々回の『俺と悪魔のブルーズ』におけるテーマとしてのアメリカ音楽、しかも私はその悪魔を、フランシス・ベーコンが描いた肖像のようなと記したが、彼の画集が重要な役割を占め、さらに前回の『月光の囁き』のタイトルを組み合わせたかのような作品がある。それは物語の展開はまったく異なっているにしても、marginal×竹谷州史の『月の光』で、これも「ブルーコミックス」をめぐる作品群のひとつに加えてかまわないだろう。この作品もまた次のような詩に象徴される物語であるからだ。それは生者が死者に繰り返し語りかける歌でもある。
この胸のざわめき 遠くから呼ぶ声あり
青い月の光
人間(ひと)は誰も 男も……女も いずこより来たりて いずこに去るのだろう。
世界が壊れる……その前に 自分が壊れるその前に ……知りたい
『月の光』はSF、ミステリー、オカルティスム、ホラー、スパイ小説などの多彩なファクター、及び登場人物の名前からわるように、フェリーニの『道』などの映画からの引用をふんだんに盛りこんだ作品に位置づけられる。それはおそらく原作者と考えていいmarginalの、現在と社会に対するクリティックをベースにして成立している。だがそれらがポリフォニックに構成され、全4巻に及ぶ物語がかなり錯綜を見ていることもあってか、コミックとしては異例の「これまでのお話」が第3、4巻の冒頭に付されている。だがこれらも長いので、もう少し簡略にストーリーを押さえておこう。
東京で高級娼婦送迎のバイトをしている木暮柾彦は、北海道にいる姉の麻美が急死したとの知らせを受け、ずっと絶縁状態だった実家に戻り、その遺品として姉が最後に聴いていたCDを持ち帰る。そのCDにはラベルがなく、彼女が編集した盤かと思われたが、それを聴いて、彼は得体のしれない波動を感じ、次の瞬間に自分の肉体(ボディ)を見下ろすという体外離脱を体験する。もしかすると、自分は元に戻れたが、姉も同じ体験をし、肉体=抜け殻に戻れなくなったのではないだろうか。
柾彦は姉の死の真相を探るために、CDと体外離脱の関係を調べ始める。そのCDはアメリカの謎めいたフリージャズ奏者のアルバート・アイラーの未発表演奏だったことがわかる。だが彼は三島由紀夫の死の同日に水死体として発見されていて、なぜこのCDが体外離脱を促すのかはわからない。そのかたわらで、柾彦は空中に浮遊した自分を「幽体」と名づけ、その実験を繰り返して距離と高度を伸ばし、満月の夜空にも浮くようになり、そこでの少女の美佐、老賢者ザンパノ、バケモノのヌルヌル君、『フランシス・ベーコン画集』から離脱した男といった「幽体」に出会う。彼らに共通するのは「不安と孤独」であり、その「天空」には広大無辺なシステムが存在しているようなのだ。
『Francis Bacon』画集
この老賢者ザンパノについてふれておけば、これはフェリーニの映画『道』もさることながら、『月の光』の物語構造から類推すれば、大きな影響を与えていると思われる、マーク・Z・ダニエレブスキーのメタフィクション大作『紙葉の家』(嶋田正一訳、ソニーマガジンズ)から引かれているのではないだろうか。
一方でヌルヌル君は柾彦に、アメリカにおけるアストラルプロジェクトを語る。それは体外離脱を利用した極秘の新たな軍事スパイプロジェクトで、それに姉の麻美も関わっていたのである。柾彦も美佐もそれに巻きこまれようとしていた。だがともに「霊的感受性」を備えた麻美=死者と、柾彦=生者との最後の言葉が交わされ、彼女は弟に別れを告げるかのように語りかける。
「人間が《無意識》を自覚できないのは自我や本能がそれを妨げるからです。
生まれる以前と死後の世界を仮に《異次元》として語るとすれば……同じように異次元もまさに人間の無意識のごとく“生者”には了解不能なのです。
人類史における例外的な突然変異、あるいは聖者が異次元を“知覚”しても、それを他者に伝える時……比喩として方便として《物語》を使わざるをえません。
けれどもそれは時代や地域的な善悪のバイアスで歪められた”似て非なるもの”として説かれる宿命になってしまう。
異次元のことは(中略)物質と非物質が壮大に織りなす無限宇宙のシステムであること(中略)。
起源と死後が同一のような胎生以前と死後の世界が同致してしまうような《無意識の領域》が人類にはあるのだと」
だが最後に彼女は弟に、それらのすべてを「忘れなさい」と言う。彼は美佐と愛し合い、生者の道を歩き始めていたからだ。それに夜も明け、「青い月の光」は消えていこうとしていた。アストラルプロジェクトは破綻しつつあり、CDもまた粉々に砕かれるであろう。
どうもうまく物語を要約できず、断片的になってしまったが、これは『月の光』が織りなすスペキュレーションコミックという性格も必然的に作用している。『月の光』の英語タイトルはまさにAstral Project であり、それは前述したアメリカの幽体を利用したスパイプロジェクトのことでもあるが、同時にその他のアストラルの意味も含んでいると思われる。アストラルは、ルドルフ・シュタイナーの神智学の身体における感情を司る部分をさすアストラル体、十九世紀のオカルティストのエリファス・レヴィのいう四大精霊の物質的本体を表わすアストラル・ライトとも関連づけられるだろう。それにアストラルプロジェクトの責任者はユング主義者と設定されているように、「国家」と「幽体」の共同の不可能性、あるいは「現実」と「異次元」や「無意識」の非同一性を、麻美の言葉を借りれば、「物語」として語ること自体が困難であることを告げているのかもしれない。それでもこれらに共通しているのは「青」のイメージであり、本連載28の秋里和国『青のメソポタミア』で言及した「地球は青かった」というガガーリンの言葉でのこだまを感じることができる。
またそのイメージに関して、この『月の光』の物語に十九世紀末に立ち上げられた英国心霊研究協会のことを重ね合わせてしまう。とりわけ幽体と化した柾彦たちと地球の姿は、協会の会長を務めたF・W・H・マイヤーズのHuman Personality and Its Survival of Bodily Death(Hampton Roads)の表紙の絵と相似していることと偶然ではないように思われる。だがここは「ブルーコミックス論」の場であり、それらにこれ以上深入りするわけにはいかないので、ここで止める。興味のある読者はその書影も含んだ拙稿「水野葉舟と『心霊問題叢書』」(『古本探究3』所収、論創社)を参照されたい。