もう一編、月にまつわるタイトルのコミックを取り上げておこう。それは最近作者の土田世紀が若くして亡くなったこともあって、ささやかな追悼に代えたいと思ったからだ。彼には月をタイトルに含んだ二作があり、それらは『水の中の月』でと『同じ月を見ている』で、後者は映画化されていることから、『編集王』と並んで、土田のよく知られた作品と見なしていいだろう。
これらに限らず、土田の作品を読んでいると、何か懐かしい思いにかられてしまう。それは『俺節』のような作品が艶歌そのものをテーマとしていること、またその世界が艶歌的コードとそうした映画からの引用に充ちていることなどにも求められる。それに加えて、泥臭く洗練されてもいなかった、かつての貸本漫画のイメージを根底に秘めているからのように映る。もちろん土田のコミック技術と描写は、それらとは比較にならないほど卓抜であることは承知しているにしても。なぜならば、彼の代表作と考えられる『同じ月を見ている』も、時代背景は一九八五年から九八年にかけてで、バブル経済と高度消費社会の環境の只中にあったにもかかわらず、物語にそれらの反映はほとんどなく、登場人物にしても事件にしても、むしろ五〇年代から六〇年代にかけての出来事のような印象を残す。
『同じ月を見ている』は基本的に三人の物語であるといっていい。その物語は同じ小学二年生の水代元=ドンちゃん、鉄矢、エミの三人が出会う初夏の軽井沢から始まる。元は幼い頃に母を亡くし、酔いどれの父との貧しい二人暮しの中で、転校生の鉄矢と親しくなり、絵を描くことがうまく、外国人大使の別荘で遊んでいたことから、大使の娘エミと知り合うことになる。エミは心臓を病み、あまり外に出られない状態だった。元は他者の心をインスピレーションのように感じることができるので、彼女のほしがっている犬の絵を描き、元気づける。8歳の誕生日に、彼女は元から石に描いた似顔絵をプレゼントされ、これからもずっと誕生日に自分の絵を描いてほしいと頼む。「そしたらエミ、その日を楽しみにして……一年でも、一日でも輝いて生きられる気がするの」。その時、夜空には光を放つ月が初めて見守るように姿を現している。
時代は飛び、病気のエミはそのまま山荘で暮らしていたが、元と鉄矢は高校生となり、三人の関係はそのまま続き、鉄矢はエミの病気を治すために医大をめざし、元は「世界に通じる画家になれる」とエミに励まされていたが、貧しさは相変わらずで、高校に通いながら山の炭焼小屋に泊まりこみ、椎茸づくりを手伝っていた。そうしたある夜、鉄矢は仲間たちと山で焚き火をして酒盛りし、火事を起こしてしまい、それを元は目撃する。山火事は拡がり、エミの山荘にまで及び、彼女の父も元が描いた娘の絵を取りに戻り、焼死してしまう。そして山火事の犯人は元で、火元は炭焼小屋とされ、彼は逮捕され、少年院に送られてしまう。しかし20歳の誕生日に絵を贈る約束を守るために、元は少年院を脱走し、エミからの手紙を入手する。それは19歳のエミの手紙で、成功の見込みが五分五分の心臓手術を受けることが告げられ、次のように続いていた。
ドンちゃん、おぼえてくれていますか?
ハタチになるまで毎年私の似顔絵を描いてくれる約束だったよね。「ハタチになるまで」って約束……私のほうから破ることになるかもしれない。
でも、もしハタチの誕生日を無事に迎えることができたなら、エミはまっ先にドンちゃんに逢いたいの。
毎晩、月を見ながら思っています……同じ月をドンちゃんも見ていてくれたらいいなって。
元の少年院からの脱走とこのタイトルを告げるエミの手紙から、『同じ月を見ている』は実質的に始まっている。そうして織り成されていく物語は、ドンちゃんのひたすら自己放棄のドラマということになろう。
近代文学のテーマが、一人の女と二人の男をめぐる三角関係のドラマであることはよく知られている。例えば、二葉亭四迷の『浮雲』や夏目漱石の『こころ』もそうであり、その三角関係の中で、前者は恋人を奪われていく男、後者は恋人を得た男の悲劇を描き、時代や社会の様々なメタファーならしめる作品として提出されていたし、三角関係という主題は近代文学の最も太い縦糸であったといえる。漱石の『こころ』は榎本ナリコによってコミック化もされている。
しかし『同じ月を見ている』にあったドンちゃんは、常に三角のうちの自らの辺を外すようにして生き、存在する。エミはようやくそれに気づく。ドンちゃんは「世の中のあらゆる悲しみを自分が引き受けようとしてたんだね」と。それゆえに彼はいつも同じ月を見ているだけでなく、最初に引いた宮澤賢治の詩にあるように、いつも見守っている月、慰安をもたらす「ひとつの青い照明」として存在しているのだ。
そのようなドンちゃんの存在によって、物語の登場人物たちの関係の絶対性は解体され、異化されていくことになる。だがそのためには究極の自己放棄としての死に向かうしかなかった。
土田はそのようなドンちゃんを追悼するために、同じく宮澤の「雨ニモマケズ」の全文を引用し、『同じ月を見ている』という物語を閉じている。この最終巻の刊行は21世紀に入った最初の年の5月であり、連載完結もそれほどタイムラグを見ていないはずだ。とすれば、土田は21世紀の始まりに向けて、あえてクサさは百も承知の上で、宮澤の「雨ニモマケズ」を引用し、物語を終えたことになる。ここに土田特有の艶歌的エトスを感じてしまう。またそれゆえに早死にしてしまったのではないだろうか。
そして偶然ながらエミの「宇宙や海底で考えてもここで考えても普通の真理は同じ」という言葉の、「宇宙」は前回の『月の光』、「海底」は次回の『グロコス』を示唆しているようにも思えてくる。
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