猛暑が続いているので、暑気払いのような一編を記してみたい。
一九九〇年に出版された石川賢治の写真集『月光浴』(小学館)は英語タイトルとして、Moonlight Blue が付されていることからわかるように、そこに収録された写真の大半が青の色彩に包まれて、夏の夜に望まれる清涼なイメージを伴っている。これらの写真は満月の光だけを光源として撮影されたもので、月光の示す青の神秘と深さを鮮明に浮かび上がらせるとともに、それらを伝えんとしている。
「月光浴」という言葉は『日本国語大辞典』(小学館)にも掲載されていなかったので、この写真集の出現によって定着し、使用されるようになり、グレゴリ青山の『マダムGの館 月光浴篇』も例外でないと思っていたが、その命名にあたって別のルーツがあることを、同書を読んで教えられた。でもそれは後述することにして、まずは『マダムGの館 月光浴篇』のイントロダクションを紹介しよう。こちらもLA MAISON DE MADAME G BAIN DE LUNE というフランス語訳タイトルが添えられている。
何の説明もなく、ただ「深い闇と霧の中で僕は追われていた」と始まる冒頭のページにおいて、その「深い闇と霧」は青みを帯び、その中から三日月に照らされた時計台のある古い館が現われてくる。その館の扉を明けると、そこにはさらなる十五の扉が待ちかまえていた。「僕」は急に恐ろしくなり、館の外に飛び出した。そこはおびただしい薔薇の花が咲き、そのむせかえる香りの中で、「僕」は意識を失ってしまった。その「僕」を館の中からマダムGが見ていて呟く
「かわいい子がやってきたこと。 扉の向こうは別世界、 連れて行ってあげる― 美という名の別世界へ。 ようこそ― マダムGの館へ……」
そして逆回りする時計台の針と月光浴をするための露台(バルコン)が描かれ、第一扉「黒蜥蜴」が開かれ、「僕」はいつからかわからないが、「雨宮」と呼ばれ、マダムGの助手として、この館の秘密の扉を開け、知られざる美の世界へ読者を誘うことになる。もはやいうまでもなく、第一扉は江戸川乱歩の『黒蜥蜴』(『江戸川乱歩全集』第9巻、光文社文庫)と三島由紀夫の戯曲『黒蜥蜴』(学研M文庫)に向かって開かれていく。乱歩の原作において、美貌の女賊黒蜥蜴が雨宮なる青年を「奴隷」=「子分」として従えているように、「黒衣婦人」マダムGも「雨宮」を助手とするのは、『黒蜥蜴』を見ならっているからだ。
それを始まりとして、次々に扉が開かれ、それぞれ異なる美という名の別世界が召喚される。それらの別世界は人物であれば、高島華宵、山名文夫、竹久夢二、竹中英太郎、太宰治、事象であれば、月光浴、花、雨、風と題し、扉が開示され、そこにマダムG主演、「雨宮」助演、グレゴリ青山演出の世界が出現していくのである。
ここでは他ならぬタイトルと共通する第四扉「月光浴」を開いてみる。その〈1〉で、マダムGはインド映画『十四夜の月』の女優に扮し、そのタイトルソングを月光の露台(バルコン)で歌う。そして月が女性の美の象徴であることを語り、月の魔力や狂気=ルナチックにもふれ、乱歩の「目羅博士の不思議な犯罪」(『江戸川乱歩全集』第8巻所収)や横溝正史「かいやぐら物語」(『鬼火』所収、角川文庫、出版芸術社)、夢野久作『ドグラ・マグラ』(角川文庫)などを例に挙げる。すなわちこの「月光浴」の章がこれらの作品にヒントを得ているかのように。
『十四夜の月』
しかしこの「月光浴」は〈2〉へと続き、そこでさらなる本命の作家と作品名が明かされる。それは中井英夫であり、「殺人者の憩いの家」(『中井英夫全集』9 所収、創元ライブラリ)へと及んでいく。この小説は「月光療法」を受けた主人公が夜の露台につながれ、月光を浴び、静かな狂気に陥っていく予感の告白で終わる。マダムGは中井こそが、戦後初めてこの小説に「月光浴」という言葉を登場させ、その言葉のために小説を仕上げたと語るのだ。そしてさらに『中井英夫全集』のエッセイや日記に相当する6、7、8の文章を「月光に沁みこんだ美酒」のように引用している。それは中井が『虚無への供物』(講談社文庫)のエピグラフとして掲げたヴァレリーの「“虚無”へ捧ぐる供物にと/美酒少し/海に流しぬ/いとすこしを」という詩をもじっている。またここで「雨宮」が裸体で露台の柱につながれているのも、「殺人者の憩いの家」のパロディだとわかる。
さてあらためて『虚無への供物』のことを考えてみると、推理小説構造の中にゲーム、色彩学、月や薔薇談義などを散種させていて、明らかにその大いなる影響を受けた『マダムGの館 月光浴篇』は、所謂「蘊蓄コミック」に位置するのではなく、『虚無への供物』の落とし子のように見えてくる。それにグレゴリ青山は前述したように、江戸川乱歩と三島由紀夫から始めて中井英夫につなぎ、太宰治と乱歩の挿絵を描いた竹中英太郎までを結びつけ、「雨宮」に「大好きな作家太宰治」と告白させている。太宰、三島、中井の系譜に乱歩を文学史的にブリッジさせること、それは中井の文学史観でもあり、まさにその実践が『マダムGの館 月光浴篇』の意図のようにも思えてくる。
しかもその狂言廻しはマダムGと「雨宮」少年が務め、舞台は月光浴のための露台のある謎の館で、そこの時計台の針は逆回りしている。「雨宮」少年は乱歩の『黒蜥蜴』から召喚されているが、マダムGもまた『黒蜥蜴』の最初の章が「暗黒街の女王」とあり、その暗黒街は「G街」とされているので、そこからの転用なのかもしれない。だが『マダムGの館 月光浴篇』の最後のページに描かれた三日月にこしかけ、本を読んでいる彼女を見て、これがGの由来ではないかという気にもさせられた。もちろん単にグレゴリのG とも考えられるが。
もうひとつ、「月光浴」の示す「青」についてだが、彼女の著者名に含まれる「青」も重なることに加え、私が一九七〇年前後に読んだ『虚無への供物』は三一書房から刊行されていた『中井英夫作品集』所収のもので、それを取り出してみると、武満徹装丁の箱と本体の背文字はすべて青で、その箱の表に描かれたL’offrande au néant 、すなわち「虚無への供物」の地図もまた濃い青の色彩に包まれ、中編「青髯公の城」も収録されていた。武満は中井の作品群に青の色調を読み取り、そのような装丁に至ったのではないだろうか。
(『虚無への供物』、三一書房版)
またグレゴリ青山には『ブンブン堂のグレちゃん』(イーストプレス)や『田舎暮しはじめました』(メディアファクトリー)などもあるというので、それらも読んでみたいと思う。